ケータイ辞書JLogosロゴ 下野村(近世)


宮崎県>高千穂町

 江戸期〜明治22年の村名。臼杵郡のうち。下ノ村とも書いた(国乗遺聞・元禄11年日向国覚書)。延岡藩領。高千穂18か村の1村で,宮水代官所の管轄下にあった。村高は,「寛永11年差出」(国乗遺聞)・元禄11年「日向国覚書」ともに349石余,延享4年「拝領諸村高帳」(日向国史下)349石余,ほかに下野村新田として16石余(うち前々より改出6石余),「天保郷帳」365石余,「旧高旧領」326石余。高千穂地方には地侍的性格をもつ小侍・足軽が置かれていたが,延享4年の「日向国臼杵郡高千穂小侍足軽并川内村小侍給地給米帳」(明治大学蔵内藤家文書)によれば,当村の小侍に給地高1石の津隈宇兵衛・甲斐次左衛門と給米20俵の甲斐久平がおり,足軽には給地高1石の甲斐権次兵衛がいた。なお,同帳によれば,甲斐久平は医術を身につけていたので船尾役所へ引っ越しを申し付けられたが,当時再び当村へ戻ってきたという。村内の寺社として,下野八幡,川崎にある川崎大明神(祭神素盞嗚尊)と歳大明神(祭神大歳神)は,古来から高千穂88社の1つに数えられている。村のほぼ中央の八幡に八幡大神社があり,祭神は玉依姫命・品陀和気命・息長足姫命で,宝治元年の創建と伝えられる。高千穂領主三田井氏の建立と伝え,高千穂神社とともに高千穂郷民の尊崇する社で,明治期まで高千穂18か村の各村の出資出夫により維持されたという記録がある。天台宗八幡山無量院鶏足寺は八幡大神社の別当寺で,はじめ比叡山延暦寺鶏足院の末寺であったが,のちに京都粟田口青蓮院の末寺になった。同寺は日向国の北半,肥後国の東半,豊後国の西半と3国の盲僧の本山で,最盛期の江戸中後期には檀家10万8,000軒を数え,僧侶も40人以上おり,坊堂も数多くあり,琵琶法師の本山であった。このため盲僧としての免許を受けたい者は,毎年6月16日の八幡神社の祭礼に参詣し,鶏足寺に3日3晩参籠して薄墨の御綸旨を拝し(永禄4年に当時の住職日円が,大僧都に任ぜられた上卿中山大納言連署の墨付が現存する),仏事供養を行い,鶏足寺の首僧からそれぞれに応じた職階の免状を受けて国に帰るというものであったという。明治維新の排仏毀釈により鶏足寺は廃絶となり,首僧は八幡神社の神職に転じ,他の僧侶は解散して,現在はわずかにその什物を神社の倉庫に留めているだけとなったが,長い歴史があるのでいくつかの貴重な資料が残されている。深井野には浄土真宗本願寺派無辺山浄光寺があり,阿弥陀如来を本尊とする。同寺は永享元年に,高千穂庄山裏村(現高千穂町上岩戸)の登尾鉱山に建立され,登尾銀山浄光寺と称されていたが7代180余年を経て,登尾鉱山の廃山によって,若干の門徒とともに当村字高野平の延命庵跡に移転した。その後10代を経て明治元年火災に罹り,堂宇や古書・宝物を焼失。明治4年廃絶したが,同13年再興の許可があり,字深井野の旧庄屋跡を買い受けて本堂を再建し,現在に至っている。現住職は開基から20代にあたる(高千穂町史)。明治2年の「竈数石高人別調帳」(明治大学蔵内藤家文書)によれば,本田高349石余・新田高16石余,竈数119・人数654(男343・女311)。明治4年延岡県,美々津県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同17年西臼杵郡に属す。明治15年戸長役場の合併により上野村外四ケ村役場に属した。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治12年5月23日で,同書によれば,村の規模は東西約1里・南北約25町,宮崎県庁からの里程は西北へ約37里28町,地勢は「群山四面ヲ環リ」「一帯ノ澗流東西ニ逵シ又西北ヨリ東南ニ流ル,運輸便ナラス,薪芻ハ僅ニ自給スヘシ」と見え,地味は,田の土質中の中,畑の土質中の上,麻・麦の栽培に適し,水利は不便で数日雨が降らなければ旱乾を患うという。また,税地は田9町余・畑120町余・宅地8町余・山林73町余・原野145町余・芝地1町余の計358町余,無税地は計1町余,官有地は山林1町余,貢租は地租金500円余・雑税金694円余の計1,195円余,戸数148(うち神社2)・人数831(男413・女418),牛177・馬251,村内の字地別戸数は折原5・赤石5・逵平【つじひら】11・谷12・山ノ脇3・井上3・石原4・宮原8・広木野9・聖川8・陣内9・漆野8・大神野13・界野11・八幡13・槐6・木野下12。学校は深井野に人民共立小学校があり,生徒数は男27・女6。戸長役場も深井野にあった。神社は村社として八幡に八幡神社,井上に井上神社がある。さらに,物産は駒15,6頭・犢5,6頭・蜀黍270石・麻1,000貫・煙草2万斤・油菜子10石・酒300石・焼酎15石・栗10石・鶏卵1万顆,民業は皆農業を営み,農間に工業に9戸,商業に1戸が従事し,医者1戸,牛馬売買5戸がいたと記される。明治22年上野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7460294
最終更新日:2009-03-01




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