ケータイ辞書JLogosロゴ 高崎(中世)


宮崎県>高崎町

 戦国期に見える地名。日向国諸県【もろかた】郡のうち。竹崎とも称した。樺山玄佐自記の永禄5年の項によれば,島津貴久は真幸院の北原兼親と親交をもち,兼親を飯野城主としていたが,伊東義祐は真幸の領有を求めて出陣した。このような状況のなかで伊東氏の娘が三之山にいて,「竹崎・高原之人体」が北原氏家中の白坂下総介を殺害し,北原氏の内訌が発生したとしている(旧記雑録後1)。この「竹崎」は当地のことと推定される。永禄7年4月22日の最上宗檜別紙副状によれば,「薩摩大隅日向之境目 真幸院内之事 伊東方近年押領之地」とあり,真幸院内の伊東方押領地が記されているが,そのうちに「三野山之郡 三之山之内高崎」とあり,高原・野尻とともに伊東方の支配下にあったことが知られる(同前)。ところで,天正4年,伊東氏は高原に陣をしき,島津氏とことを構えるに至ったが,同年8月18日島津義久は義弘らと高原攻略に向かった。この時都城の北郷時久は「竹崎表」から高原に入っている(長谷場宗純自記・箕輪伊賀自記/旧記雑録後1)。この戦いで伊東氏は没落し,島津氏の日向攻略が進んだ。その後島津氏は肥後・豊後攻略を進め九州全体に勢力を有するに至るが,天正15年豊臣秀吉の軍門に降った。天正15年5月26日の島津義久書状によれば,島津家久に慎重に行動するよう伝えているが,そのうちに「猶巨細者至高崎申含候」と見える(旧記雑録後1)。なおこの後家久は豊臣秀長に毒をもられ,6月5日佐土原に帰って死んだという(小林市史)。なお,「雲遊雑記伝」は高崎城主として白坂下総守を挙げ,「日向国史」も高原・高崎地頭として白坂下総守を挙げている。中世には高崎川流域一帯から大淀川左岸観音瀬までが高崎の領域であったという。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7460366
最終更新日:2009-03-01




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