ケータイ辞書JLogosロゴ 高城(中世)


宮崎県>高城町

 室町期から見える地名。日向国諸県【もろかた】郡のうち。「三俣之高城」「三俣高城」とも称した。建武4年正月10日の建部清種軍忠状によれば,畠山直顕は南朝方の肝付兼重を討つために,建武3年12月5日に三俣院に発向し,これに従った清種は同月18日に「兼重城」とその支城である石山城を攻撃したことが知られるが,この兼重城は高城のことと推定される。建武4年3月15日の土持重綱書下,同年4月23日の建部清種軍忠状・建部清道軍忠状などにも同様のことが見え,南北朝期には「兼重城」と称していたことが知られる(池端文書・禰寝文書2・市来文書/日向古文書集成,旧記雑録前1,九州史料叢書19,南北朝遺823・879・917・918)。なお文明年間の「山田聖栄自記」には「肝付兼重ハ三俣高城ニも住所之様ニ有而,ひと比ハ三俣殿と云れ」たと記されている(鹿児島県史料集7)。また戦国期の永正16年9月9日の中野歳信答申書によれば,新納氏は南北朝期の島津氏久のとき「三俣高城東五百町之衆頭」に定められたとしている(旧記雑録前2)。下って,室町期の応永2年閏7月,九州探題今川了俊の勢力拡大を好まない室町幕府は了俊の召還を決定し,この年8月,了俊は京都に向かった。この頃のものと推定される8月29日付の清綱書状によれば,探題である了俊の在京のことを記し,大隅国大将は尾崎氏に決まり,九州の大名や守護は薩・隅・日3か国に在陣すべしとの京都での決定を伝えるとともに,日向では「三俣高城」にいることを禰寝氏に伝えている(禰寝文書/九州史料叢書22・今川了俊関係編年史料下)。その後,文明6年の行脚僧雑録には「三俣,高城仁新納越後守」「高城衆仁和田播(橘)薩摩,長井,遣(貴)島,福永,浜田,横山,富山,酒勾」と見える(旧記雑録前2)。また,文明8年8月22日の島津季久書状によれば,守護島津忠昌と対立関係にあった季久は,相良氏に対して,伊東祐尭・祐国父子が「三俣高城」に侵入したことをうけて,相良氏に援助を求めている(相良家文書1/大日古・日向古文書集成)。これ以後三俣をめぐる島津・伊東の抗争が続くことになる。なお,桂庵玄樹の七言絶句集である「島隠集」には玄樹が明応3年10月15日に当地を訪れたときの詩が収められており,そのうちに「十有五日登高城」と見える(続群12下)。下って「北郷忠相日記」によれば,天文2年10月1日のこととして「高城山衆六ケ村麓人衆隠置伏懸候間,城衆出合伏中道」とある。さらに天文3年閏正月6日条には「高城江夜中人衆指向候」とあり,忠相は軍勢を高城に派遣したことが知られる。翌7日条によれば,伊東方は加治山・大熊・山之口の城を放棄し当地を中心とする三俣の地は北郷氏の支配下に入ったことが知られる(旧記雑録前2)。「島津忠朝譜」によれば当地をめぐる伊東・島津の抗争について,飫肥【おび】領主島津忠朝は天文元年11月25日に軍勢を三俣に出し,同2年3月28日には忠朝自身が軍勢を率いて伊東方と戦い,伊東方は大敗を喫し,さらに同3年閏正月7日に「彼城郭」すなわち高城を奪取したとしている(同前)。天文13年8月20日の北郷忠相施入状によれば,忠相は天文11年8月20日に「於高城脚并小山合戦大破之」とあり,伊東・北原連合軍と戦い550余人を討捕らえたとし,「長田門」を高称寺に施入している(同前)。ここに見える「小山」は現在の高城町桜木に残る小山城址のことと推定される(県史蹟調査第8輯)。これ以後高城は北郷氏の支配下に入った。天正8年の肥後合戦陣立日記によれば,「北郷殿内諸地頭十二人」のうちに「〈高城〉北郷又次郎殿」と見える(旧記雑録後1)。その後,天正15年に豊臣秀吉が九州を統一し,都城を伊集院幸侃に与えた際に伊集院氏の支配下に入った。天正19年の「日向国五郡分帳」には,「一,高城 三百町」と見える。文禄4年6月29日の豊臣秀吉朱印知行方目録には「伊集院右衛門尉入道知行分」8万3石8斗4升のうちに「一,九千七百二十石二斗八升九合〈同〉たか城」と見える(旧記雑録後2)。慶長4年に幸侃の子忠真が島津氏に反した時はその家臣である比志島義智・小牟田清五左衛門が城を守り,元和元年の一国一城令によって廃された。なお,中世日向国において「高城」の名を有する著名な城が児湯【こゆ】郡にも実在し,これを「新納之高城」「新納院高城」などと呼び,諸県郡の高城は「三又之高城」などと呼んで区別された。城址は現在の北諸県郡高城町大井手にある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7460374
最終更新日:2009-03-01




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