ケータイ辞書JLogosロゴ 高原(中世)


宮崎県>高原町

 戦国期に見える地名。日向国諸県【もろかた】郡のうち。樺山玄佐自記によれば,永禄4年頃のこととして,伊東義祐の娘婿で真幸院の領主である北原兼守が早世すると伊東方は真幸を領せんと企て,北原氏の家臣である「竹崎,高原之人躰白坂下総介」という者を呼びつけて殺害せんとしたが,用心して樺山氏の領地「おくほ」へ落ちのび,結局当地には伊東義祐が在陣することとなったとしている(旧記雑録後1)。伊東氏のこのような介入の背景には北原氏の真宗をめぐる内部対立と,北原兼守の後継者争いがあったものと思われる(小林市史)。これにより,真幸院を領していた北原氏は分裂し,以後伊東・島津・相良氏の争奪の舞台となる。永禄7年4月22日の最上宗檜別紙副状によれば,「薩摩大隅日向之境目 真幸院内之事 伊東方近年押領之地 三野山之郡 三之山之内高崎 同 高原 同 野尻」とあり,当地は伊東方の支配するところとなっていた(旧記雑録後1)。箕輪伊賀覚書によれば,「元亀二年の冬の比より真幸へ発向して,三ツの山小林を家陣とし,高原・野尻・紙屋ニ連き番兵を籠て由々敷風情なり」とあり,元亀2年の冬のころから伊東方は軍勢を真幸院に出し,小林を根拠地として,野尻・紙屋および当地に番兵を置いて島津方に対した。一方島津方については,飯野城を本城,加久藤・吉田・吉松を枝城としてこれに対したとしている(旧記雑録後1)。翌元亀3年5月4日,木崎原合戦が起こり島津方は伊東方を破るが,木崎原合戦頸注文には「〈高原衆〉曽我源五郎」とあり,当地の曽我源五郎が伊東方に付いて戦死している(旧記雑録後1,真幸院記/鹿児島県史料拾遺9)。また箕輪伊賀覚書には「遁散タル者共ハ小林・高原・野尻ヲ差テ落行」くとあり,伊東勢は当地を目ざして敗走している(旧記雑録後1)。この戦いの後,天正4年8月に島津方の高原城攻略が行われ,伊東氏は没落の一途をたどる。「上井覚兼日記」によれば,天正4年8月16日島津義久は高原城攻略のため鹿児島を出陣,18日に島津義弘のいる飯野に到着,19日には攻撃を開始した(大日古)。この合戦の様子を記した箕輪伊賀覚書によれば,「小林・温水・三山ヲ跡ニ置キ,野尻ノ城ヲ側ニ見テ打通り,高原ノ城ノ野頸ノ原ニソ打出ラル」とあり,飯野を出発した島津勢は夷守岳山麓を迂回して当地に入っている(旧記雑録後1)。戦いは21日に城主伊東勘解由が和議を申し入れたため,22日の城明渡し交渉を経て,23日に明け渡され(上井覚兼日記/同前),さらに上原長門守が地頭として任ぜられた(箕輪伊賀覚書/旧記雑録後1)。その後,天正5年12月,伊東方の拠点であった野尻城は城主福永丹波守の島津方への内応によって落城,伊東氏は没落する。日州御発足日々記によれば,同年12月12日のこととして「高原江御越着,内城江被成御宿」とあり,野尻城攻略の後島津義弘は当地に宿泊したことが知られるが,さらに「山東之城不残御知行」とあり,伊東方の支配下であった諸城が島津方の領するところとなっていたことがわかる(旧記雑録後1)。没落した伊東義祐は大友氏を頼るが,これにより島津氏と大友氏の対立となる。天正6年11月の新納院高城の戦いとそれに至る島津方の様子を記した日州御発足日々記・耳川合戦日記・大友合戦日帳などによれば,10月25日に鹿児島を出発した島津義久は26日当地に到着し,上原長門守の館に入り,翌27日当地を出発しその日のうちに紙屋に着いている(同前)。なお,これより前,9月29日に島津義弘は「高原之鎮守」に参拝している(同前)。11月12日の両軍決戦は島津氏の大勝に帰し,義久は鹿児島に帰る途中,11月27日当地に宿泊,翌28日出発,29日に鹿児島に到着している(旧記雑録後1)。大友氏に大勝した島津氏はさらに九州制圧に乗り出す。なお,「上井覚兼日記」天正11年3月28日条によれば,鹿児島に出仕していた覚兼は,この日「高原・田布施之地頭」を召し寄せており,また天正13年7月14日条によれば,「従鹿児島,高原伝ニ書状預候」とあり,宮崎にいた覚兼のもとに島津義久からの書状が高原を経由してもたらされている。天正15年5月,豊臣秀吉の九州仕置の結果,島津氏は秀吉に降伏するが,その直後の5月7日付の島津義弘書状によれば,本田下野守(親貞)に入来院・真幸院・祁答院・飯野のことなどを指示したあと,日向の本領が秀吉によって安堵されたことについて,「霧島へ可為御拝進」とし,さらに「高原之儀も同前ニ可有御寄附」と述べ,霧島神宮に当地を寄進する旨を記している(旧記雑録後2)。天正15年8月24日の島津義弘寄進状によれば,「高原七十町名内」より毎年俵物100俵を霧島神宮に寄進している(霧島神宮文書/日向古文書集成・鹿児島県史料拾遺8・旧記雑録後2)。さらに天正年中日々記の天正16年10月5日条に「高原」と見え,文禄2年8月23日の新納旅庵書状にも「高原地頭職」のことが見える(旧記雑録後2)。上野準人覚書によれば,文禄3年12月,「吉田・馬関田・小林・高原ヨリ百六十人須木へ被召移候」とあり,当地から須木へ島津氏の家臣が移されたことがわかる(同前)。さらに下って,慶長5年3月25日の島津家久(忠恒)願文によれば,「日州高原之内蒲牟田村五百八石」を霧島神宮に寄進している(霧島神宮文書/日向古文書集成・鹿児島県史料拾遺8)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7460396
最終更新日:2009-03-01




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