ケータイ辞書JLogosロゴ 蓼池村(近世)


宮崎県>三股町

 江戸期〜明治22年の村名。日向国諸県【もろかた】郡のうち。勝岡村ともいい,幕府に提出された郷帳類では勝岡村と見えることが多いが,「薩藩政要録」「島津家列朝制度」など鹿児島藩の行政上の史料には蓼池村と称されることが通例で,「三国名勝図会」は勝岡村について「此村里俗蓼池村と呼ふ」と記す。はじめ鹿児島藩都城島津氏領,慶長19年からは鹿児島藩直轄領。勝岡郷に属す。勝岡地頭の所在地。村高は,寛文4年「日向国諸県郡村高辻之帳」,元禄11年「日向国覚書」,「天保郷帳」ではともに勝岡村と見え1,207石余,「旧高旧領」では1,244石余。元和元年一国一城令に伴い勝岡城が廃城となり,その山すそに地頭館が設けられ,勝岡郷士35家が集住して麓を形成した(山之口町史・日向郷土辞典)。元禄年間藩命により桜島郷士の助兵衛・助作・与作が地内前目に移住して帰農した。なお,与作は宝永3年没。天保6年3月の勝岡郷真宗改めによって大量の転宗者が出たが,信仰を貫いた仏飯講の世話役桑田熊次郎らは切腹や種子島流刑に処せられ,飫肥【おび】藩への逃亡者もあいついだ(山田町郷土史)。当村にもかくれ念仏洞(現存)があり,信仰は密に守りぬかれた。寺院は真言宗長久寺,禅宗梁新寺があったが,慶応3年の排仏毀釈で廃寺となった(県史蹟調査第8輯)。神社は貞享元年建立ともいう竈門神社がある。「三国名勝図会」によれば,神社は記載されず,寺院に真言宗無量山蓮乗院長久寺と曹洞宗鶏足山梁新寺があり,長久寺は鹿児島城下大乗院の末寺で,本尊は阿弥陀如来,梁新寺は鹿児島城下福昌寺の末寺で,本尊は薬師如来,開山は潭州守竜和尚(寛文2年遷化),北郷久村が隣郷の高城石山村などを領知した時にその父時久の菩提のために建立したと伝え,時久の法名を月庭梁新庵主というと記す。戊辰戦争には勝岡郷士も参戦した。明治2年荘内役所管内となり,その初代地頭は三島通庸。同3年三股郷に属す。同4年鹿児島県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同年北諸県郡に属す。明治10年の西南戦争には当地の郷士も参加した。「日向地誌」の著者平部嶠南が諸県郡を調査したのは明治13年で,同書によれば,当村の規模は東西約30町・南北約33町,東は富吉村,西は高木村,南は樺山村,北は桜木村と接し,宮崎県庁からの里程は西へ約10里25町,地勢は「闔境平坦,畦圃曠漠,唯西南一隅ニ林邱邐迆,沖水川其南畔ヲ流ル,運輸便ナリト雖モ薪芻足ラス」と見え,地味は「其田大半黒ソミ土,砂土真土モ少シク雑ル,其質中ノ下,畑ハ悉皆黒ニカ土,其質亦中ノ下,水利ハ便ナラス,五六月ノ際旬余雨フラサレハ必ス旱災ニ罹ル,沖水川傍近ノ田ハ水害モ亦少シクコレアリ」とある。また,税地は田137町余・畑214町余・宅地27町余・切換畑7町余・荒畑1町余・山林50町余・芝地31町余・藪2反余などの計471町余,無税地は計1町余,官有地は山林1町余・芝地3町余などの計5町余,貢租は地租金1,635円余・雑税金401円余の計2,037円余,戸数183(うち社1)・人数887(男443・女444),牛86・馬134,村内の字地別戸数は小園6・後目74・前目86・今市15。学校は地内城ノ下に人民共立小学校があり,生徒数は男40・女29。戸長役場は城ノ下にあった。神社は諏訪ノ迫に竈神社がある。民業は皆農業に従事し,農間には工業に11戸,染屋に1戸,牛馬売買に8戸が従事した。物産は,糶200石・茶1,500斤・楮皮150貫匁・藁縄150杷。さらに,川は沖水川が流れ,用水は橋ノ口溝・下江溝を利用し,湖沼に三本松池があり,道路は隣村往還が通り,古跡として藤岡城跡・長久寺跡・梁新寺跡・勝岡地頭宅跡が記される。明治17年の戸数180,戸長は竜岡資淑(都城市史)。同21年の戸数171・人口942,反別は田137町余・畑218町余・宅地27町余・池沼5反余・山林48町余・原野33町余・雑種地4反余の合計466町余,諸税および町村費の納入額は国税1,595円余・地方税581円余・町村費59円余,村有財産は原野6町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年三股村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7460427
最終更新日:2009-03-01




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