ケータイ辞書JLogosロゴ 三納代村(近世)


宮崎県>新富町

 江戸期〜明治22年の村名。日向国児湯【こゆ】郡のうち。高鍋藩領。当村一村で高鍋藩の地方支配の行政単位の1つである三納代郷を形成し,三納代郷は新納【にいろ】院に属した。佐土原【さどわら】藩領と隣接していた。「拾遺本藩実録」によれば,元禄14年7月に「高鍋村・日置村・三納代村・上江村・椎木村・持田村・河原村以上七ケ村代官石井又助ヘ被仰付」とあり,三納代の郷名が見えている。郷内を管轄する三納代庄屋が置かれていた。村高は,寛文4年「日向国之内秋月領地覚」(川南町史)には882石余,元禄11年「日向国覚書」には883石余,「天保郷帳」には933石余,嘉永7年「領知郷村高辻帳」(日向国史下)には882石余,「旧高旧領」では1,882石余。元禄6年7月2日,村境の杭2本が古くなり文字が見えなくなったため,書き直された(拾遺本藩実録)。元禄14年,当村の農民新右衛門および悴庄右衛門家内5人は,祖先伝来の屋敷を庄右衛門の従弟孫七へ渡したことを理由に当地を立退き,佐土原藩領へ欠落した。このため高鍋藩は,佐土原藩へ役人を派遣し,新右衛門が帰参すれば庄右衛門へ元通り屋敷・田畑ともに渡すと説得させたが,新右衛門が承引しなかったため,同年1月29日,佐土原藩に対し新右衛門らの追放を指示している(同前)。享保16年9月7日,日置村および三納代村の新開田の高付が行われた(同前)。延享2年2月16日,三納代庄屋は,郷中の百姓が困窮し当春の田方仕付が終わらないので,損毛の場合は抜検見をしてほしいと藩に願い出,当年ばかり一竿切り検見が許された(同前)。文化2年9月23日,上江【うわえ】村庄屋は去春の拝借義倉米および拝借高を郷中の農民に渡さなかったとして,三納代郷に所替されている(続本藩実録)。村内の神社として,貞享3年の「高鍋藩寺社帳」には,弥陀薬師観音を本地とする宇佐八幡,および正観音を本地とする厳島大明神が記されている。また「日向地誌」では,逵【つじ】に誉田別ノ命を祀る八幡神社,宮ノ頸に市杵島姫を祀る厳島神社,弁済使【べんざし】に高龗神・闇龗神の2神を祀る淤加美神社があるという。寺院は,貞享3年の「高鍋藩寺社帳」に禅宗竜雲寺末那智山久奥寺,曹洞宗大平寺末蓮台寺,浄土真宗本願寺直参遍照寺が見え,「日向地誌」では,蓮台寺・遍照寺のほかに禅宗高鍋大平寺末の久福寺があり,久福寺と蓮台寺は明治4年に廃絶したという。明治4年高鍋県,美々津県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。村内は4組に分かれていたという(郡行政/県古公文書)。明治10年の西南戦争では,当地からも薩摩軍の農兵が徴募された。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治11年6月15日で,同書によれば,村名は御苗代村と見え,村の規模は東西約32町・南北約15町,東から北は日置村,北から西は新田【にゆうた】村,南は上富田村と接し,宮崎県庁からの里程は北へ約5里10町,地勢は「西北ニ林岡ヲ擁シ東一面平地ニ接ス,田多クシテ畑少ナシ,運輸半ハ便ナリ半ハ便ナラス,薪炭ハ自給スト雖モ芻秣足ラス」と見え,地味は「其田五分黒土三分真土二分砂土,其質中ノ中,畑ハ悉皆ホヤ土赤黒,其質亦中ノ中,水利ハ日置村ニ比スレハ稍便ナリ」とある。また,税地は田118町余・畑106町余・宅地12町余・山林53町余・藪5反余の計291町余,無税地は計4反余,官有地は山林1町余・原野3町余・芝地2町余などの計7町余,貢租は地租金1,169円余・雑税金386円余の計1,555円余,戸数155(うち神社3・寺院1)・人数708(男373・女335),牛2・馬218,舟3,村内の字地別戸数は宮ノ頸57・弁済使19・逵14・下村28・平【ひら】14・奥20。学校は宮ノ頸に人民共立小学校があり,生徒数は男43・女30。民業は皆農業を営み,農間に工業に5戸,瓦製造に3戸が従事し,牛馬売買に1戸がいた。物産は駒10頭・糶550石・楮皮30貫・瓦1万3,000枚・焼酎10石。道路は南の上富田村境から東北の日置村境まで大分県街道が通り,川は御苗代川が流れ,用水に北川溝・南ノ溝が見える。さらに陵墓として古塚40基が記されている。明治21年の戸数156・人口719,反別は田116町余・畑106町余・宅地13町余・池沼1町余・山林50町余・原野3町余・雑種地9町余の合計300町余,諸税および町村費の納入額は国税1,163円余・地方税498円余・村費176円余,村有財産として山林3町余などがあった。明治22年富田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7460877
最終更新日:2009-03-01




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