ケータイ辞書JLogosロゴ 姶良荘(中世)


鹿児島県>吾平町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。大隅国のうち。建久8年の大隅国図田帳に大隅正八幡宮領として「姶良庄五十余丁〈正宮大般若庄内沙汰 元吉門高信宗清所知〉」,島津荘寄郡のうちとして「姶良西俣廿四丁六段二丈」と見える。次いで建治2年8月日付の大隅国在庁石築地役配符でも姶良荘・姶良西俣とも同様の田数で見え,姶良荘50町の内訳は,得丸名20町(うち本名17町の名主神一丸,残余3町の名主六郎兵衛尉助元)・末枝名20町(名主御家人諸二郎掾高友)・末次名8町(名主平太夫入道)・同中隈2町(名主六郎兵衛尉助友)となっている。また,弘安10年7月日付の宮侍守公神結番次第には「三番 姶良得丸 太郎大夫 諸太郎」「四番 姶良牧山 嶋四郎 諸次郎大夫」「五番 姶良末次 蒲生南三郎 平四郎馬(篤カ)」とある(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。「管窺愚考附録」所引の得丸氏系図によれば,平季基の弟良宗が姶良の開発領主で,その子良高は当荘惣領得丸名を相伝してこれを子良門に伝え,その子良包に4子あって,長子良長は得丸名を,次子良成は西迫名を,三子宗高は末枝名を,四子宗清は末次名をそれぞれ相伝したという(県史)。一方,当地には肝付氏の勢力も及んでおり,鎌倉末期の元応2年には岸良弁済使・東方弁済使らが,姶良荘弁済使永信や子息通証・通信以下従人らを殺害するという事件が発生,元応2年10月22日付,元亨元年7月日付の相論文書が残されている(岸良氏文書/旧記雑録)。南北朝期に入って建武3年2月9日,島津貞久が下野資久を姶良西俣の地頭代に補任しているが(樺山家文書/同前)以後,当地も南北朝の動乱にまきこまれていく。観応2年8月日付の建部清増軍忠状によれば,「今月三日頼仲与党人嶋津田三位房・饗庭九郎以下数百人凶徒,姶良庄井上寄来,取向城之間,即時馳向,令散々太刀打合戦,三位房以下凶徒数十人討取之訖」とあり(肝付譜中/同前),清増は文和5年4月28日,畠山直顕より合戦料所として当荘得丸二郎五郎跡を預け置かれている(禰寝文書)。その後,永和年間から永徳年間にかけて今川了俊は「姶良庄西俣村」「姶良庄内徳丸名」などをもって禰寝久清の合力を求めており(同前),嘉慶3年6月19日には島津孝久が「姶良庄得丸名内修理田壱町〈窪田五反,河窪三段,鎧弐段〉」を得丸但馬入道に宛行っている(樺山氏四代孝久譜中/旧記雑録)。この間,文和3年の上井富福丸解謝馬毛付日記には「一 四所若宮政所祭馬事,姶良・栗野・蒲生之分三疋者,定使等請取之」とあり(国分宮内沢氏文書/同前),永徳2年6月7日付の北原主計入道宛慶安・幸阿連署状には「姶良庄末次内田中寺」が見える(藤野氏蔵本/同前)。室町期になって,島津元久は応永6年11月3日,中馬左近蔵人に「姶良庄西俣村内五町」を,同年12月19日,岸浦(良)勘解由左衛門尉に同じく「西俣村内五町」を,同27日には得丸但馬守に「姶良庄内得丸名一円」をそれぞれ宛行っており(旧記・岸良氏文書/同前),応永18年12月28日には島津久豊が得丸某に「姶良庄末次五町分」を,永享8年3月3日には島津忠国が禰寝直清に「姶良庄之内牧山名二十町」,同重清に「姶良庄之内末次名五町分」をそれぞれ宛行っている(久豊公御譜・忠国公御譜/同前)。姶良荘は吾平町一帯であり,姶良西俣は西俣村とも称し,鹿屋市南部である。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461087
最終更新日:2009-03-01




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