ケータイ辞書JLogosロゴ 悪石島(近世)


鹿児島県>十島村

 江戸期〜明治41年の村名。薩摩国川辺【かわなべ】郡のうち。吐噶喇七島の1つ。鹿児島藩直轄領で郷には属さず,藩の船奉行の支配下に置かれた。中之島駐在の在番の管轄下にあり,島の行政責任者には島民の推挙に基づいて任命された郡司1名と横目2名がいた。明治6年の郡司は中村氏,横目は坂元氏・中村氏(十島村文化財調査報告書第2集)。文化10年,諏訪之瀬島の噴火では島民の一部が悪石島に移住。「薩藩政要録」によれば,所惣高35石余,用夫18,鹿児島より海路90里。「要用集」では,所惣高35石余,用夫40。貢租は,鰹節1,633本,煎脂18斤,七島真綿250匁,帆反税6分,水手銀6分,竈税1匁(拾島状況録)。郡司は御用船ともいう十反帆ぐらいの年貢船で,旧暦5月の頃貢納のために島を出発し,山川港に入って手形を受けたのち鹿児島に入港,貢物を納めて養生米その他の日用品を仕入れ,秋冬の頃北東風を利用して帰島した。寺院には曹洞宗福聚山養徳寺と御祈祷寺とも呼んだ真言宗大興寺があったが,ともに明治初年に廃された。養徳寺の墓地の入口にある「島立神の墓」と呼ばれる古墓は,郡司が巫女(ネーシ)とともに祀ってきたもので,郡司の祭詞は「島立世立ノ御主様アゲタテマツリ申ス。上様ニハ御主様ヨリ仰セ上ゲラレ下サレ申セ。ウエンムエン天竺ノ瓜ト茄子ヲ手ニ持チテ,手向クル水ハ賀茂川ノ水之レナリ」というものだった。島の宗廟は八幡神社で,ほかに島立神社,寄舟神社等があり,社家は有川氏。安政2年寺社奉行所が有川権守平盛房を悪石島総廟八幡宮其外末社社司に,辰年,大宮司役所が同人を七島神社惣掛りに任命した記録がある(拾島状況録)。明治3年肥後国袋村の住人吉太郎が,助太郎なる者とともに悪石島に流され(十島村文化財調査報告書第2集),吉太郎が宿をとった有川彦松方の庭に築山を作ったのが悪石島に庭園の技術が入った最初とされている(悪石島見聞記)。明治4年の戸数27・人口118(地理纂考)。「県地誌」によれば,戸数32・人口120,男は漁猟,女は綿布を織り,物産は松魚・鮪・鰆,漁船6艘。明治16年藤井富伝らが無人島になっていた諏訪之瀬島に入植するに当たり,悪石島にきて島民の協力を得ている。明治18年鹿児島において悪石島の物産を扱ってきた悪石島問屋の田辺氏が来島し寺子屋を開き,同30年私立悪石島小学校を設立。明治21年村の半分を焼いた大火では古記録を焼失。同23年朝鮮船が漂着したのを救助。同25年頃,喜入・加世田・谷山あたりから日用品と鰹節の交換に商人が来島,また坊津の漁船が近海に出漁し,島に立ち寄るようになった。同28年の戸数27・人口121。産物は,粟・裸麦・甘藷・砂糖・鰹節・煎脂・塩辛があり,年貢船と呼ばれた長さ4間・幅8尺3寸の船を含めた6艘の船と網が島民の共有となっている。明治29年大島郡に属し,同41年十島【じつとう】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461119
最終更新日:2009-03-01




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