ケータイ辞書JLogosロゴ 莫禰院(中世)


鹿児島県>阿久根市

 鎌倉期〜室町期に見える院名。薩摩国のうち。はじめ莫禰,のち阿久根と書く。阿久根の最も古い豪族に莫禰氏がある。その初代莫禰成兼は,平安末期の天治・大治年間ごろにはすでに莫禰院に入り院司としてこの地を支配していたと思われる。莫禰院は古代の出水郡国形郷が荘園化したところで,島津荘発生後はこれを同荘に寄せいわゆる寄郡となったものであろう。この莫禰院が史料に初見するのは,建久8年の薩摩国図田帳である。図田帳によれば島津荘寄郡莫禰院40町は,和泉小大夫兼保を名主とする土師浦【はじうら】5町と院司莫禰成光の支配する延武35町に大別され,地頭は島津忠久であった。範囲は阿久根市域の折口川を北限とし,南は大字西目にわたっているが,土師浦の5町歩は大字西目の枦【はし】地区であり,領主は和泉兼保であるので,莫禰成光の支配地は延武名と称する残りの地区35町歩である。次に南北朝期の文和4年2月23日付の島津師久から東郷左京亮宛書状に「凶徒莫禰彦太郎入道成因跡〈除散在知行分〉,山門院内多田名々主職・同宮里郷内長崎寺并莫禰院〈除遠矢入道知行分〉事,渋谷河内権守殿与両人所去申候也,善悪共御中分候而半分宛可有御知行候」などと見え(師久公御譜/旧記雑録),莫禰院が既に島津師久の支配下にあったことが知られる。さらに室町期に入り,応永18年9月15日付の総州家島津久世が清色(入来院)重長に与えた宛行状に「薩摩之国莫禰院一曲之事,依今度志宛行所也」とあり(入来院氏文書/同前),島津氏の内紛に,総州家の久世が,入来院氏の歓心を買うため所領の莫禰院を重長に宛行っている。この地は桑原城など11か村である。しかし総州家が亡び,のち薩州家島津が出水郡一円を支配することになると,在地領主であった莫禰氏も薩州家の家臣に組み込まれるに至り,莫禰氏は阿久根氏と改め,これとともに莫禰院の地名も阿久根と変わるのである。なお,文安5年(推定)の犬童重国軍忠状案に「□□□月五日ニ木上を罷立候而,阿久根浜ニ□□□出船候て,同日ニ片浦ニ著船」と見え,相良氏が肥後芦北郡を攻めた時,肥後球磨郡木上から出て阿久根浜に上陸,占拠したことが記されている(犬童文書/熊本県史料)。船の通航については「上井覚兼日記」天正11年正月条などにも見えているが,港は現在の浜町のあたりで,古くから使用されてきた。また慶長4年2月7日付で島津忠恒が出水地方に与えた掟の1か条に「瀬さき野・いつミ野・あく禰野・なが嶋野・網津野牧之事,如前々これをとりたつへきの条,野馬あらくあたる間敷候,可令馳走事」とあり,あくね野牧の存在を知ることができる(旧記雑録)。この牧は現在の大字赤瀬川牧之内に設置されていたが,土質が粘土で平地が多く,良馬が生産されずに江戸期に間もなく廃されたという。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461121
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ