ケータイ辞書JLogosロゴ 池辺村(中世)


鹿児島県>金峰町

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。薩摩国阿多郡のうち。池部村とも書く。仁治2年9月10日付六波羅御教書に「左衛門尉友成申,為薩摩国阿多郡北方地頭,以新儀功,宛課役於池辺村,不糺返質物等由事」とある(国分寺文書/旧記雑録)。建久8年の薩摩国図田帳によれば,阿多郡に国分寺領5町の存在が知られる。すなわち池辺村がその所在地であり,北方地頭鮫島家高がその押領を図ったので,国分寺留守職(沙汰人)友成はこれを訴えたのである。そこで六波羅探題は家高に参洛し対決を遂げるよう命じたが,家高はこれに応じなかった。探題はその後繰り返し参洛を促し濫妨停止を命じている。家高は,その所領内の新田八幡宮領に対する非法のため,宝治元年10月25日関東下文によって,ついにその所職を改易され,池辺村を含む阿多郡北方地頭職は二階堂氏に与えられた(旧記雑録)。貞和7年3月30日二階堂行存譲状には「あたのこほりきたかたの内いけへの村行存さうてんの所領たるあひた,八郎にゆつるところなり」とある(同前)。南北朝の動乱期には,当地の池辺城が南薩摩における守護方の一拠点となった。康永2年9月新田宮権執印代俊正軍忠状に「同(暦応3年8月)十一日,阿多郡池辺城可警固之由,被成御奉書間,罷向之処,同廿九日御敵等打出観音寺,苅取作毛之刻,馳向致合戦畢」とあり,また同5年9月にも「同又阿多郡池辺城可警固之由,被仰之間,馳向致忠畢」とある(水引権執印文書/旧記雑録)。これより先,暦応3年7月10日足利直義御教書によれば,阿多郡北方(田布施郷)領主二階堂行仲は「於薩摩国阿多北方構城,建武四年四月以来,致軍忠由事,守護人(島津貞久)所注申也,尤以神妙」であると称されているが(道鑑公御譜/同前),これが池辺城であった。貞和2年9月4日二階堂行仲等連署注進状の一節には,「次大隅国平山左近将監号社家仁,不向谷山城上者,可合力池部城之由,同欲被仰下,而如先々言上,於山南諸方御敵等中仁,為当城一所間,彼城令没落者,依可及御大事,所令言上也」とあり(伊作家文書/同前),同城は南薩摩における守護方の一拠点であった。同4年8月17日一色氏直氏軍勢催促状によれば,渋谷氏は「薩摩国凶徒事,可寄来池辺城之由,依有其聞,可合力之旨,先度被仰処,不事行云々,何様事哉」と責められ,急ぎ発向するよう命ぜられた(入来院氏文書/同前)。また康安2年3月25日斯波氏経感状によれば,伊作氏は「薩州池部城合戦之時,於御方被疵之由事,尤以神妙也」と称されている(伊作家文書/同前)。その後,応永22年1月7日付の二階堂行隆寄進状に「多布施之城,来十一日ふみしつめ候者,此際神領之上に一丁寄進可申也」とあるが(阿多郡史料),この「田布施之城」は池辺城のことであろう。同城について「三国名勝図会」には「牟礼ケ城,池辺村にあり,周囲凡そ一里に近し,野岡にして今悉く畠なり」とある。下って,天文5年7月23日付の田布施池辺村諏訪社神体銘に「一奉勧請田布施池辺村〈当地頭政郎郷〉薩州市来院諏訪上宮〈本社〉大願主島津忠良并貴久」と見える(旧記雑録)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461210
最終更新日:2009-03-01




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