ケータイ辞書JLogosロゴ 伊作荘(中世)


鹿児島県>吹上町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。薩摩国のうち。伊作郡・伊作院などともあるが,実体は同一。荘号としては嘉禄3年6月18日付島津忠久譲状に初見,以後,永享4年10月11日付島津好久書下まで見える。文治3年3月,伊作郡司であったと思われる平重澄が,島津荘寄郡であった同郡を島津荘一円荘に寄進,翌文治4年には「薩摩国寄郡内殿下新御庄」として立券された。本所は近衛家,領家は一乗院,下司は郡司一族で,地頭には島津氏が補任された。荘内には日置【ひおき】南郷内の「外小野」も含まれ,四至は「東限谷山境 西限海 南限小桃崎并上毛夜木瀬任塩道大牟礼 北限外小野北波多辺日置峯波多尾上黒河戸淵」とある。建久8年の薩摩国図田帳では,島津荘一円領のうちに没官領285町があり,そのうちに「伊作郡二百町〈正八幡宮論田 廿二町五段廿〉地頭右衛門兵衛尉」と見える。一円荘に寄進し,下司職などを得た平重澄は,平氏政権に与同したので没官領とされたこと,面積200町で一部は大隅正八幡宮と係争中であること,地頭は島津荘惣地頭の惟宗(島津)忠久であることがわかる。しかし,建久8年12年24日付の大番役支配注文案には伊作平四郎がおり,下司職をもつ平氏系の家柄が伊作を姓としていることが知られる。一方,惣地頭島津氏の分家が,久長・宗久・親忠・久義・勝久・教久・犬若丸・久逸・善久・忠良と代々伊作荘を所領としており,この久長を初代とする家を伊作家島津氏,また伊作氏という。荘では鎌倉中期より領家と地頭の所務の相論が発生し,元亨4年の下地中分まで続いた。この時以後当荘は,伊与倉川(現在の伊作川)を線とし,伊作荘南方と伊作荘北方とに区分され,前者は伊作荘河南とも呼ばれ地頭領となり,後者は伊作荘河北とも呼ばれ領家の所領となった。しかし,貞和2年には河北も地頭の勢力圏となり,観応2年7月4日には伊作荘領家職すなわち河南も兵粮料所として地頭に預けられ,伊作荘はほぼ荘園としての実を失い,地頭伊作家島津氏の所領となった。以後,伊作家島津氏は戦国島津氏へと成長するが,その拠城は伊作城であった。なお,鎌倉期の大量の相論文書中には富永名・中原名・宮内名・伊与倉名・今田名・田尻名・中里名・入来別符名・大野名・和田名などの名田が見え,南北朝期には中原城・中山城などの城名が見える(以上,旧記雑録・島津家文書・伊作荘史料)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461216
最終更新日:2009-03-01




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