ケータイ辞書JLogosロゴ 伊佐敷(中世)


鹿児島県>佐多町

 鎌倉期から見える地名。大隅国禰寝【ねじめ】院南保のうち。文永11年9月日付佐太宗親所領注文案に「一〈本名〉イサシキ〈宗親屋敷 イトハルコノ内ニ在〉」と見え,佐太(多)氏の所領の1つであった。次いで,正和元年12月27日付鎮西探題裁許状案によれば,「大隅国禰寝院伊佐敷村事」について佐多親治と庶子伊佐敷親明が相論をしており,鎮西探題の裁許は,公事については惣領親治の支配を守ること,また,安堵下文についての親明申状は吹挙に及ばないとしている。こうした相論の延長上にあるものか,元弘3年12月には「伊佐敷内佐下和村用作一丁五段」を伊佐敷又四郎が徳政と号して苅田狼藉し百姓等を追放したその狼藉人交名も注進されている。また,翌元弘4年正月26日には建部ちかあつが「ねしめのミなミまたのうち,いさしきのむらかミのわきあら越きた二たん」を「ねしめとの」に売却している。その後,建武元年10月25日には「くらう入道日念ちきやうの地 いさしきの内さけわのむら,同さたのむらの内ハコ山」などが,建部清光から益法師丸に譲られており,これらの地は応永9年12月9日には,沙弥祐泉(角信俊)から嫡子八郎清政に譲られている。下って,明応5年12月5日には建部清宣が「佐多村伊佐敷名之内鷺輪之村」などを孫犬鶴女に譲っているが,孫女に譲らねばならなかったのは,同元年11月の肝付の合戦で一子清智が討死にしたためであった(以上,禰寝文書)。なお,この間,永仁2年8月2日には御家人伊佐敷阿古次郎代二郎三郎の異国警固番役勤仕完了を大隅守護北条時直が証しており(同前),正応2年8月21日付の守護御狩左手右手書分には左手馬の一員として「伊作敷大掾」が見える(国分正八幡宮社司沢某所蔵文書/旧記雑録)。なお,天養2年3月12日付の建部頼清処分状には「作志木」なる地名が見えるが(禰寝文書),これはあるいは当地のことかもしれない。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461226
最終更新日:2009-03-01




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