ケータイ辞書JLogosロゴ 和泉荘(中世)


鹿児島県>出水市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。薩摩国のうち。泉荘とも書き,和泉郡ともいう。古代の出水郡は平安末期には荘園化して和泉郡・山門【やまと】院・莫禰【あくね】院に三分されるが,鎌倉期建久8年の薩摩国図田帳に見える和泉郡がすなわち和泉荘にあたり,出水市のうち一部海岸地帯を除く大部分の地に比定される。中世を通じて和泉郡・和泉荘・泉荘と記されたが,文明年間頃からは再び出水の表記も併用されている。初見は図田帳で,島津忠久の支配する島津荘一円領635町の一所として「和泉郡三百五十町 下司小大夫兼保」と見える。その後,寛喜元年9月5日付の関東下文で伴保久が「島津庄薩摩方内泉庄弁済使,給黎院郡司職并上籠・石村両村」を安堵されているが(和泉氏文書/旧記雑録),この伴(和泉)保久は図田帳の小大夫兼保の後であろう。保久の2〜3代後には保道(通)・保俊があり,保道は和泉荘を,保俊は給黎【きいれ】院を領したらしい。文永2年5月7日付の島津忠時宛関東御教書には「薩摩国名主等令対捍京都大番夫雑事由事,如泉庄名主保通陳状者」と見え(山田文書/同前),正応5年4月7日には,保道が当荘内の新開地であろう「和泉新庄」惣領職田畠在家および山野等を次男保在に譲与している(肝付兼石譜/同前)。一方,当荘地頭職ははじめ島津忠久,以後島津氏が伝領,4代忠宗の時,次男実忠(忠氏)に譲与し,実忠の後は5代直久に至るまで和泉を称している(島津正統系図)。南北朝期には肥後との国境に位置していたこともあって武家方・宮方の諸勢力が入り乱れ,和泉城・尾崎城などを舞台に度々合戦があった。延元元年5月6日には後醍醐天皇が宇治惟時一族等に「薩摩国和泉庄地頭職〈嶋津豊後守実忠跡〉」を与える旨の綸旨を出しており,興国3年7月24日付の阿蘇大宮司宛懐良親王令旨には「薩摩国前守護嶋津上総入道々鑑,去比打越千台了,仍所被差遣討手也,為後措急速発向和泉・山門退治凶徒」と見える(阿蘇家文書/大日古)。また,文和4年11月5日付で幕府に進上した島津師久目安状によれば,「和泉名主等并牛屎左近将監,在国司入道以下」多勢を率いて師久の守備する尾崎城を攻撃したことが知られるが(道鑑公御譜/旧記雑録),その宮方領主の1人和泉荘名主は和泉一族の惣領和泉下司諸太郎兵衛尉政保である。その後,室町・戦国期を通じて,「文明記」文明17年3月17日条に「三郎太郎忠興,自出水至高城令発向」,「上井覚兼日記」天正3年4月7日条に「有河備前守,泉へ御使者ニ被罷越候」,同天正11年正月12日条に「徳淵より出船申候,和泉米之津へ着岸候」などと諸史料に当地名が頻出するが,このころには出水の表記も多く用いられている。下って慶長5年と推定される11月15日付加藤清正書状に「此表之儀,出水口へ可及(急カ)行ニ相究候之処,御侘言申上度候条,御取次をも申候様ニと,両使を以申越候間,此方ヨリも様子申遣,重而之一左右迄,働之儀相延有之事」とあり,当地が関ケ原の戦後の微妙な政治状勢にさらされている様をうかがうことができる(下川文書/熊本県史料)。なお,当地は文禄の役後一時豊臣秀吉の蔵入地となっていたが,慶長4年正月島津氏に返付された。その直後の慶長4年2月7日付で,島津忠恒(家久)が出水地方に与えた掟書の一条に「瀬さき野・いつミ野・あく禰野・なが嶋野・網津野牧之事,如前々これをとりたつへきの条,野馬あらくあたる間敷候,可令馳走事」とあり,出水野牧が以前から存在したことが知られる(旧記雑録)。牧の位置は下鯖淵の矢筈山の麓山地にあり,域内に草木原・狩集など牧にちなんだ地名が残っている。この出水牧は矢筈牧とも言われ,江戸初期まであったが,いつの頃か廃牧となった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461244
最終更新日:2009-03-01




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