ケータイ辞書JLogosロゴ 市来院(中世)


鹿児島県>市来町

 鎌倉期〜戦国期に見える院名。薩摩国のうち。建久8年の薩摩国図田帳に「市来院百五十町〈島津御庄寄郡 院司僧相印 地頭右衛門兵衛尉〉」とあり,院司・地頭の名が知られる。承久3年8月21日の薩摩国庁下文では新田八幡宮放生会の雑事として当院に「道五段卅 騎兵一人 出馬一疋 松五十把 相撲二人 菩薩䉼一人 持夫一人 小舎所屋三 四丈 二立一前 流鏑一番」が課せられている(権執印文書/旧記雑録)。当院は尼道阿から養子平氏女に伝えられた。しかし平氏女は道阿より先に没し,当院の郡司職は寛元2年8月18日に同年7月19日の道阿の譲状に任せて孫の千与熊丸に安堵され(河上氏文書/旧記雑録),また,弘安5年3月11日の橋口家忠申状によると院内の河上名名主職は宝治5年5月5日に道阿から同じく孫の橋口家忠に譲られた(同前)。郡司職を継いだ前者は代々市来氏を称し,河上名を領した後者は橋口氏,または河上氏を称した(県史1)。正和3年には市来孫太郎家貞が当院の領家年貢等の事について橋口家忠を訴えている(河上氏文書/旧記雑録)。河上名内の田園をめぐる相論も文保元年8月20日の鎮西御教書(同前),嘉暦4年7月の大蔵氏代道円重申状(同前)などにより知られる。南北朝期には,建武4年征西宮懐良親王の命で薩摩国に入った三条泰季に応じて市来時家が市来城(鶴丸城)にたてこもり,数年間にわたり島津貞久方の軍勢と激しい攻防戦を展開した(日本城郭大系18)。建武4年8月の延時法仏軍忠状には「薩摩国市来院所々合戦」と見える(延時氏文書/旧記雑録)。赤崎をはじめ院内各地で戦闘が繰り返されたのである。市来城跡は東市来町長里にある。その後,寛正年間に市来家親らが滅ぼされてから当院は島津宗家の直轄となったが,出水の島津実久が占領した(日本城郭大系18)。寛正3年4月15日の市来院之内坪付には合計15町3反が記されている(河上家文書/旧記雑録)。戦国期には,天正8年の「肥後合戦御陣立日記」に「市来 吉田美作守殿」とあるのをはじめ,「長谷場越前自記」「日州御発足日記」「箕輪伊賀自記」などに市来,あるいは市来衆が散見する(旧記雑録)。なお天正4年3月25日の島津義久書状(義弘公御譜/旧記雑録),「上井覚兼日記」などには市来湊が見えるが,市来町には湊町の大字名がある。また,「上井覚兼日記」に市来野,天文8年10月1日の島津勝久書状(勝久公御譜/旧記雑録)に市来浦が見える。文禄4年6月29日の豊臣秀吉朱印状案には「同(薩摩)日置郡之内市来村」と見え,6,058石7升3合と記されている(入来文書)。市来町・東市来町のほぼ全域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461262
最終更新日:2009-03-01




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