ケータイ辞書JLogosロゴ 市成(中世)


鹿児島県>輝北町

 平安後期から見える地名。大隅国小河院のうち。一成とも書く。保延元年2月1日と同2日の宮永社役支配状で桑西郷の中に見え,大隅正八幡宮の修理役を負担した宮永名の1つ(旧記雑録)。建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符では小河院のうちに「市成六丁」とある(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。帖佐平山を居城とした平山氏の一族が当地を支配し,市成氏を称したが,南北朝期に島津貞久に降り,代わって山田式部少輔忠継が当地を領したという(輝北町郷土誌)。応永16年7月7日の山田玄威(久興)起請文に「一成村入久両村田数事,十九町三反卅歩,此内〈寺社一町三反卅〉,段銭拾貫三百七十五文」とあり,翌々18年11月18日には島津久豊によって山田久興に「市成之内南持留」が安堵されている(山田久興譜/旧記雑録)。山田氏は島津氏の庶流である。その後,山田氏は島津久豊と伊集院頼久の争いにも島津方として出兵し,応永30年2月3日,同32年閏6月9日の山田玄威(久興)申状などに「小河院内一成村六町 見作十二町 同持富三町」とあり(山田聖栄譜・山田久興譜/旧記雑録),さらに文明6年の行脚僧雑録にも「市成仁山田」と見え,山田氏による当地の支配が続いたことがわかる(旧記雑録)。しかし,天文13年に山田加賀守忠広は当地を島津貴久に献上,貴久は忠勤の志があったとして肝付氏に当地を与えている(貴久公御譜・箕輪覚書/旧記雑録)。その後,天正2年に肝付兼亮が島津氏に降り,島津以久が当地を領することとなった。この事を記して「長谷場越前自記」は「肝付よりの捧げ物廻り・市成・恒吉城」,「北郷時久日記」は「市成城モホトナク右馬頭殿御受取にて候」としている(旧記雑録)。この間,「上井覚兼日記」によると,島津朝久が市成を領することを請うているが,市成は要地であることから島津義久は以久に与えたとある。天正4年島津氏と伊東義祐との争いに市成衆は義久の手勢として出陣(旧記雑録)。文禄4年6月29日の豊臣秀吉朱印状には,伊集院右衛門入道(忠棟)知行分として「千弐百九石弐斗七舛七合,大隅之内市成」と見える(入来文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461267
最終更新日:2009-03-01




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