ケータイ辞書JLogosロゴ 市比野(中世)


鹿児島県>樋脇町

 平安末期から見える地名。薩摩国入来【いりき】院のうち。市比野(乃)浦・市比野名・市比野村とも称す。長寛2年6月1日の八幡新田宮先執印桑田信包押書によれば,新田八幡宮領として「市比野浦」が見える(入来文書)。建久8年の薩摩国図田帳によれば,同宮の市比野に有する社領は15町であり,これが「市比野浦」に相当すると考えられる。鎌倉期に入り同八幡宮の執印職や五大院々主職が惟宗(執印)氏によって世襲化されると,八幡宮領等はその私領化して,寛元元年8月10日の八幡新田宮執印兼五大院主迎阿弥陀仏譲状によれば,市比乃の原田1町は長子の惟宗友成にその他の市比乃浦は次男の師久に譲られている(水引執印文書/旧記雑録)。ところで,入来院は鎌倉期の当初没官領として千葉常胤が地頭に補任されるが,その後宝治元年相模国の御家人渋谷氏が千葉氏の跡に入部する。千葉氏の支配した田積は図田帳によれば,92町2反であったが,入部した渋谷氏は検注を断行し,建長2年12月には193町8反余の田地を把握し,八幡新田宮の市比野村15町8反をも年貢注文に加えて,その支配に置こうとしている(入来文書)。その結果,文永7年10月15日の渋谷定仏(重経)同公重連署和与状によれば,市比野は入来院氏の3代惣領である公重が支配し,寺尾氏の祖で塔原の地頭の叔父重経との間で両村の境が確定されている(同前)。しかし,鎌倉末期では,公的には新田八幡宮領であり,弘安9年10月の新田宮政所注進状には市比野15町分の築地用途として分銭1貫710文が割り当てられている(権執印文書/旧記雑録)。また,永仁6年7月20日の異国要害石築地配分状案によれば,渋谷氏担当の入来分の中には当地の名は見えていない(入来文書)。さらに,渋谷氏も鎌倉期までは,当地を完全に支配したわけではなく,嘉元3年3月10日の入来院市比野村名主友家証状によれば,名主職は友家の一族(八幡新田宮の惟宗氏の一族吉永氏か)の相伝の所職であったことがうかがえる(同前)。ところが,南北朝期に入ると,動乱の中で,渋谷氏の進出は強化され貞治7年8月6日の渋谷重成(寺尾重宗)の譲状案には「薩摩国入来院内市比野名主職」が見え,重成の重代相伝の所領として子息の松丞丸に譲られている(同前)。また,貞和2年11月26日の重成の祖父でもある渋谷定円(重基)置文案では,市比野屋敷田畠山野荒野が公重以来の所領として養子平次五郎重勝に譲られる(同前)。その後,それは「市比野村半分地頭職并下地」または「市比野名」と表現され,惣領の重門・重頼・重長と相伝されてゆく(同前)。ところが,応永2〜4年にかけ,薩摩守護島津伊久と大隅守護島津元久の軍は渋谷氏を攻め,市比野城を攻め落とし,薩摩の国分氏・執印氏の一族で,惟宗師久の子孫といわれる旧市比野名主吉永氏を当地に復するが(国史・伊久公御譜・応永記/旧記雑録),それは一時的なことで,数年後には,市比野のみならず,入来院全域は渋谷氏の所領となり,永禄12年末に入来院氏が島津氏の軍門に降るまで続いた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461274
最終更新日:2009-03-01




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