ケータイ辞書JLogosロゴ 藺牟田(中世)


鹿児島県>祁答院町

 室町期〜戦国期に見える地名。薩摩国祁答【けどう】院のうち。伊牟田・井牟田とも書く。寛正5年の平徳重覚書に「院内之田数之事……藺牟田・長野まて算田仕候間」とある(山崎氏文書/旧記雑録)。江戸期の「三国名勝図会」藺牟田条の藺牟田古城の項に「渋谷河内守延重の第二男,重基,藺牟田村の主となり,代々の居城とす」と見えており,渋谷祁答院7代重茂の子延重の二男重基が,室町期の応永7年ごろ藺牟田郷の領主となり藺牟田氏を称したという。藺牟田城については「文明記」の文明17年2月19日条に「修理亮忠廉越入来山,翌日押寄于祁答院藺牟田城」とある(旧記雑録)。別名弦掛城ともいい,祁答院町藺牟田の城山に比定される。室町期島津氏と渋谷氏は激しく抗争し,戦国期の文明17年2月島津忠昌は,同族の帖佐領主島津忠廉を遣わして渋谷祁答院氏を討たしめた。同月20日忠廉は藺牟田城に藺牟田重基の孫重持を攻めた。祁答院氏の一族久富木・大村氏らが重持を援けたが,ついに落城し藺牟田氏は衰亡した(祁答院藺牟田郷誌)。その後祁答院氏が断絶すると,永禄12年ごろ藺牟田は公領となり,村田経定が地頭に任ぜられ,また天正8年8月19日の「肥後合戦御陣立日記」に当地の地頭として川上上野介の名が見える(旧記雑録)。その後永禄4年の三州内所替により北郷久村が領治し近世に及んだ。「上井覚兼日記」の天正3・4年の条などにも当地が散見する。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461314
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ