藺牟田郷(近世)
江戸期〜明治22年の郷名。薩摩国伊佐郡のうち。はじめ,鹿児島藩北郷氏領,慶長6年日置【ひおき】島津氏領,慶長19年からは樺山氏領,外城の1つ。なお,日置島津氏領の時,同氏は慶長9年から黒木郷(1か村)をも領有したが,領主常久の死とともに慶長19年大村郷に移封された。同時に当郷へは,それまで曽於【そお】郡市成郷を領した樺山久高が転封してきた。当郷は,藺牟田村の1か村からなる。領主仮屋は中央部に置かれ,周囲に郷士が集住して麓を形成。「薩藩政要録」では,樺山権左衛門私領,家中士惣人数508,家中士人体260,所惣高1,659石余,家中高165石余,寺社高56石余,用夫79。また,同書「宗門手札改」では,家来総人数1,110,百姓378,足軽以下67,その他3。「要用集」では,樺山主殿私領,家中士総人数614,家中士人体250,所総高1,694石余,家中高250石余,寺社高46石余,用夫94。物産として藺席・鳧・などがある(三国名勝図会)。なお,同書の「藺牟田池」には「古より池中多く藺を生ず,毎歳秋八月吉日を撰び,村長【むらおさ】出て海螺を吹き,以て号となし,農民争ひ出て藺を苅る,是を藺苅日といふ,又菅と葦とを産す」と見え,藺の採取は古来よりの年中行事の1つであった。採取した藺は足駄にかけて精選し,のし(白砂の汁)をつけて乾燥した後,ゴザに織った。製品は唯一の現金収入の途であったと伝える(祁答院藺牟田郷誌)。また,カモについては「地理纂考」の「藺牟田池」に「秋ノ季ヨリ春ノ始マテ毎夜鴨多ク来リテ此池ニ寓リ,翌朝池ヲ立テ四方ノ岡ヲ越ルヲ,土人待受網ニ掛テ取ル事夥シ」と見え,藺牟田池はカモ・オシドリなどの渡来地であった。幕末の領主樺山久美は藩家老職として,勤倹政策により藩の財政改革をはかったが,藩主島津斉宣の父重豪の反感を買い,領地藺牟田において切腹を命ぜられ,のち大翁寺に葬られた(祁答院藺牟田郷誌)。明治2年領主樺山久要は領地を藩に返上,当郷は藩直轄領となる。明治4年鹿児島県に所属。同20年からは南伊佐郡のうち。明治4年伊佐郡治所の管轄下となる。のち,大区小区制などを経て,同12年宮之城【みやのじよう】郡役所,同14年からは隈之城郡役所の管轄下となる。「地理纂考」によれば,高1,698石余,戸数305・人口1,537(士族1,106・卒58・平民373)。明治22年当郷1か村は藺牟田村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461315
最終更新日:2009-03-01