ケータイ辞書JLogosロゴ 入来院(中世)


鹿児島県>入来町

 平安末期から見える院名。薩摩国のうち。国衙領の所領単位の1つとして成立。総田数92町2反。公領(半不輸の島津荘寄郡)75町,うち弁済使分55町,郡名分20町。残り寺社領17町2反(宇佐の弥勒寺を本所と仰ぐ新田八幡宮領15町,同じく五大院領2町,大宰府の安楽寺を本所と仰ぐ国分寺領2反)。しかし,ここに示された92町2反は公事田等の面積で実際の総田数とはいえない。鎌倉中期の建長2年12月の入来院内村々田地年貢注文によれば,当時の地頭渋谷定心によって193町余の田地が把握されている(入来文書)。また同文書によれば,院内に楠本・倉野村・中村・塔原村・副田【そえだ】村・清色村・市比野村などがあったことが知られる。ところで,当院は平家没官領で,鎌倉初期,千葉常胤が地頭に補任されるが,没官以前は公領の弁済使分・郡名分・新田八幡宮領・五大院領・国分寺領などの各所領に郡司・地頭・下司がおり,かなり複雑な支配がなされていた。この中で院最大の領主は在庁種明である。彼は文治3年7月の解状に見える大蔵種章と同一人物とみられ(同前),久安年間,当院弁済使を勤めた伴信房の一族と姻戚関係を持つ。大蔵氏は没官によって勢力を一掃されたが,伴氏の一流は寄田氏と称し,院内の塔原名主職を相伝して勢力があった。しかし,千葉氏の跡に補任された渋谷氏と対立し,次第に力を失っていく。また,高城郡司・同弁済使職などを有する武光氏も同族であり,応長2年6月17日の武光法忍譲状によれば,塔原の南部【なべ】村・弥毛原村に権利を有している(同前)。このほかに,鎌倉期には新田八幡宮の執印(惟宗)氏が同宮領の院内市比野村15町を事実上私領化し,市比野名主は一族の吉永氏が相伝していたようであるが,鎌倉末期には地頭渋谷氏に圧倒され,その支配権を失った模様である。ただ,応永年間,入来院(渋谷)氏が一時島津氏によって当院を追われた時,市比野に友永氏が復帰している(国史・伊久公御譜・応永記/旧記雑録)。入来院と新田八幡宮および五大院の関係は既に保延元年10月25日の宇佐弥勒寺喜多院院主石清水権寺主大法師某下文に見え,入来院内に五大院領あったことが知られる(入来文書)。また,長寛2年6月1日の新田八幡宮先執印桑田信包押書には「宮領市比野浦」が見えるが,これは後の市比野村15町である(同前)。さて,千葉氏の改易の後,その跡職は相模国御家人の渋谷一族に与えられ,当院には宝治年間頃,渋谷定心が補任される。補任当初は先例を守る姿勢であった定心も,次第に寄田氏らの旧勢力を圧倒し,激しい対立が表面化したが,その晩年の建長2年12月には村々の年貢注文を作成し,土地を把握して支配体制を一応確立した(同前)。また,それに先立って建長2年10月20日には大庭(間)状を作成して惣領を三郎明重に定め,所領を明重・重経・重賢・重純・六郎次郎・範の6子に分割している(同前)。惣領の明重は清色地頭職や市比野村などを有し,子孫は入来院氏を称して鎌倉期は現入来町地域を中心に勢力を持った。次男重経は相模国渋谷の寺尾村を与えられ,子孫は寺尾氏を称して院内塔原郷の地頭職を有し,建長7年には幕府より同職を安堵されている。寺尾氏はしばしば相伝をめぐって一族で対立があり,南北朝期には入来院惣領家の勢力に押され,その家臣化する(同前)。三男重賢は正嘉2年9月の薩摩国司庁宣によって「中村庄籠・下副田等」を譲与されたことが知られる(同前)。重賢・重継・重村(重継の弟)・重氏と相伝されるが,重氏に男子がなかったため,南北朝期初めには女子の縁組によって下副田は入来院氏庶流の岡本氏に相伝される。六男範は柏島水田半分を与えられ,倉野氏を称したようであるが,子孫は早くに衰微し,所領は惣領入来院氏の支配に入る。このほかに,明重の子息から岡本氏・山口氏,5代重勝の子息から村尾氏,定心の三男重賢の子息から下村氏などが分出している(入来院氏系図)。既にみてきたが,南北朝期に入ると,入来院の惣領系は次第に庶流を圧倒して家臣化することに成功している。南北朝期末の入来院6代の渋谷重門譲状によれば,院内の清色北方・同内上副田村・市比野村半分地頭職并下地・南方内清色村・塔原村・中村・楠本村・倉野村・久中(住)村・柏島村などが嫡子重頼に譲られており,院内の大半が惣領家の支配に入ったことが知られる(同前)。国人領主として成長した入来院氏は,室町期に入ると守護島津氏と対立して,応永年間の初めには島津元久・伊久の連合軍に清色城を攻められ,一時元久の重臣伊集院頼久が入城するが,間もなくこれを奪回している。その後は島津氏の勢力下に入るが,独自の支配を進め,戦国期の初頭には島津氏にならって「門」の制度を採用し,有力「門」は手持と称して直轄領として把握し,それに基づき家臣団編成も行った。このような戦国大名化の道は再び島津氏との対立を生み,元亀元年には再び島津氏に屈するが,所領は安堵される。後,文禄4年,一時大隅国湯之尾に移封されるが,慶長18年に本領入来院に復され,島津氏の有力家臣として明治に至る(入来町誌・入来文書)。中世入来院の地域は入来町・樋脇町および川内市の中村・久住などを含む地域に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461320
最終更新日:2009-03-01




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