ケータイ辞書JLogosロゴ 岩河村(中世)


鹿児島県>大隅町

 南北朝期〜戦国期に見える村名。大隅国のうち。延文元年8月6日の足利義詮下文に「同国本庄内〈多禰島,深河院,岩河村,財部院,筒羽野村〉」と見え,その他の所領とともに,島津貞久に安堵されている(道鑑公御譜/旧記雑録)。正平12年9月20日には島津氏久によって当村の3分の2が国分正八幡宮に寄進され(宮内社司沢氏文書/旧記雑録),延文4年3月29日には畠山直顕によって当村内本職が赤崎奏(泰)次に宛行われている(小浜十郎家蔵手鑑/旧記雑録)。また,延文4年4月5日の島津道鑑譲状には「大隅国本庄内岩河村南方」と見え,当村の南方が一期分として道鑑から女子祖鑑房に譲られ,一期の後は氏久に返すこととされている(氏久公御譜/旧記雑録)。当村の北方についても貞治2年4月10日の氏久宛の島津道鑑譲状に「岩河村〈南北 但於南方者,女子祖鑒房一期之後可知行〉」と見え,道鑑から氏久に譲られたことがわかる(同前)。禰寝久清宛の永徳元年6月29日の名和慈冬書状,同年7月21日の今川満範書状などによると当地の岩河城は今川・島津両氏の対立の中で軍事的に重要な役割を占めていた(禰寝文書)。戦国期には,「北郷時久日記」などに見え,同日記の天正2年12月5日条では「岩川五十町分」が北郷時久の知行として見える(旧記雑録)。なお,藩政期(江戸期〜明治2年)には末吉郷の一部,中之内村・五十町村・岩崎村を岩川と総称。そのうち五十町村・中之内村は一所持格伊勢家の私領で,末吉郷との二重支配を受けた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461334
最終更新日:2009-03-01




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