ケータイ辞書JLogosロゴ 岩弘名(中世)


鹿児島県>東串良町

 南北朝期〜戦国期に見える名田名。大隅国串良院のうち。観応2年8月19日,畠山直顕が日向国救仁院内田浦条とともに「同(島津)庄大隅方串良院内岩弘名」を志布志大慈寺に寄進。以降,延文6年2月24日付島津氏久寄進状に「串良院内岩広名半分」,応永13年6月5日付島津元久寄進状に「串良院岩弘名」,応永32年3月14日付の島津貴久(忠国)寄進状に「串良院岩弘名内九町分」,永享8年正月18日付,同年5月18日付両度の島津忠国寄進状に「串良院岩弘名」とそれぞれ見える(志布志大慈寺文書/県史料拾遺・旧記雑録)。この間,永享5年卯月29日,伊集院為久が田代清定に「大隅国串良院之内上条十町并岩弘十八町」を宛行っている(伊集院煕久譜/同前)。下って文禄4年6月29日付の豊臣秀吉朱印状案では,「高隈之村」1,889石余,「細山田之村」200石とともに「一,九百拾五石九斗壱合 岩広之村」が細川幽斎(藤孝)知行分とされている。なお,「串良擾乱記」「串良郷土誌」によれば,応永18年頃,島津豊久の家臣平田重宗が田代以久に代わって串良地頭となり,岩弘村に城郭を構えて居城したという。その後文明年間,重宗の子氏宗が跡を継ぎ,氏宗の子兼宗の時,明応4年4月15日,日向飫肥城主島津忠朝が岩弘城に兼宗を攻撃,兼宗は敗れて城を降り,忠朝はその跡に叔父平山忠康を入れて城主としたという。岩弘城は台地突端の平山城で,城跡は西面を串良川に接し,他の3面は空堀になって本丸・二の丸と切断されている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461344
最終更新日:2009-03-01




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