ケータイ辞書JLogosロゴ 牛屎院(中世)


鹿児島県>大口市

平安末期〜戦国期に見える院名薩摩国のうち羽月川流域を主とし,現在の大口市の大半を占める天承2年7月21日付の僧経覚解に「於牛屎真幸両郡者,為彼等押領畢」と記載されている(近衛家本知信記天承2年巻裏文書/平遺2227)安元元年8月の右近衛府牒では牛屎郡司元光が祖元平以来の相伝所領に対する敵人の乱妨を訴えている(加治木桑波田氏文書/旧記雑録)それに対して同3年4月の右近衛府政所下文ではそれらの乱妨を停止し,苅取田の稲の返還を命じている(同前)このように平安末期には郡として見えるが,鎌倉期以降は院を付して見え,建久8年の薩摩国図田帳には「牛屎院三百六十町内 嶋津御庄寄郡 右衛門兵衛尉 永松二百四十町内院司元光 幸万五十五町嶋津御庄方弁済使 木崎十五町名主前内舎人康友 光武五十町名主九郎大夫国吉」とあり,院内の田地などの様相を知ることができる当院の地頭は左衛門尉の島津忠久であったが,院内を実際に領掌したのは永松240町を領有した院司(郡司)元光で,太秦氏,のち牛屎氏を称した元光は文治3年5月3日付の源頼朝下文に「下大秦元光 可早如元令安堵薩摩国牛屎院事」とあり,源頼朝から領知を認められていたことがわかる(桑波田家文書/旧記雑録)しかし牛屎氏が牛屎院に居を構えたのは元亨元年10月11日付の関東下知状に見える元尚以降のことである(牛屎文書/旧記雑録)牛屎氏は鎌倉後期以降,山野・羽月を主とする庶家を分出していく文保元年7月晦日付の薩摩国御家人交名には15人の名が記されているが,ほとんど牛屎氏の同族と思われる(新田宮観樹院文書/旧記雑録)牛屎氏は室町期に入り,文正元年頃に菱刈氏・相良氏に追われ飯野に移った以後,牛屎院の地は菱刈・相良の根拠地として,島津氏と勢力を争うことになる(大口市郷土誌)なお,室町後期から牛山院の呼称が見られ,牛屎院から牛山院へと改称されたものとされる両呼称は戦国期を通じて併用されるが,「大口市郷土誌」は改称の時期を天正年間と推定している
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461358
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ