ケータイ辞書JLogosロゴ 牛根(中世)


鹿児島県>垂水市

 戦国期に見える地名。大隅国下大隅郡のうち。天文14年4月18日の本田紀伊守(董親)宛島津貴久判物に「大隅国之内牛禰三町」と見え,牛根城付辺田3町,二川3町,堺3町などと併せて12町が島津貴久から本田董親に宛行われている(本田氏蔵書/旧記雑録)。「三国名勝図会」によれば,牛根は暦応年中は牛根兵衛五郎道綱の所領で,文明・永正の頃は池袋氏が数代支配し,天文年間には小川尾張守武明,本田紀伊守董親の所領であったとある。池袋氏は本姓建部氏で,現在の垂水【たるみず】市牛根麓にある居世神【こせがみ】社の文明7年の年紀をもつ棟札に建部宗議の名が,永正3年の神鏡には建部宗政の名が見える。ところで,先の島津貴久判物には「同(牛禰)城付辺田三町」があり,牛根城の存在が確認される。牛根城は入船城ともいい,本田董親の後は肝付兼続が当地を支配し,永禄の初めには兼続の部下の安楽備前守が当城に在番している(箕輪日記/同前)。天正元年には島津義久が同城を攻めたが,安楽備前守はよく守り激戦となった。しかし,義久の大軍に抗し切れず,翌年の天正2年には落城している(樺山玄佐自記・北郷時久日記・長谷場越前自記・箕輪覚書/同前)。牛根城落城後,牛根の地は恩賞として伊集院右衛門兵衛尉に与えられ(長谷場越前自記/同前),次いで,天正2年8月14日には,平田宮内少輔が,牛根に移されることが決まったが,すぐとり止めとなり,平田石見守の子息隼人佑が一時牛根に入る(上井覚兼日記)。その後,鎌田尾張守政年が入ったようで,天正8年の肥後合戦御陣立日記に当地の地頭として見える(旧記雑録)。なお,天正3年2月には,当地内の河原園門の内の塩屋1間が,島津義久から興国寺へ寄進されている(興国寺文書/旧記雑録)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461359
最終更新日:2009-03-01




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