ケータイ辞書JLogosロゴ 内浦(中世)


鹿児島県>内之浦町

 鎌倉期から見える地名。大隅国肝付郡のうち。内浦村・内之浦村ともある。建仁3年11月10日および同4年正月18日,島津荘政所は下文を発し「前地頭忠久押領所弁済使得分米」を京都へ運上すべきことを命じているが,その7か所の1所として「肝付郡内之村(浦脱カ)」「肝付郡内内浦」と見える(神田橋氏文書/旧記雑録)。次いで文永11年6月18日付の肝付氏沙弥阿仏の次男兼基への譲状に岸良村の四至として「限東内浦堺」と見える(岸良文書/同前)。その後,肝付郡弁済使所務を地頭が押領するという事態が発生,郡弁済使と地頭代との間に相論が起こり,永仁3年2月28日および元亨3年4月17日に大隅国守護代等連署打渡状が出されているが,そこには西方・東方・岸良などの村とともに「内浦村四十六町二段卅(卌)」と見える(検見崎文書/同前,肝付氏系図文書写/大宰府太宰府天満宮史料9)。南北朝期に入って貞和5年5月,征西将軍宮の動向に呼応して「四国中国海賊等三十余艘」が大隅に向かうとの風聞が起こり,島津貞久は重久氏宛に飫肥南郷内目井浦と「肝付郡内之浦□(王)崎」間への出陣を催促している(重久氏文書/旧記雑録)。この王崎とは内之浦湾東北端のソテツ・ビロウの自生地,火崎に比定される。また,正平12年8月13日には伴兼里が志布志大慈寺へ「肝付郡内浦下方小串村田地」を寄進(肝付兼氏譜/旧記雑録),応永15年12月3日には同地の万雑公事が停止されている(肝付氏系図文書写/大日料7-11)。下って,天正年間肝付氏が島津氏に降ると,島津氏は内之浦その他を北郷時久に与えた。豊臣秀吉の九州平定後,内之浦などは秀吉によって伊集院忠棟に与えられたが,間もなく島津氏の直轄領となっている(樺山紹剣自記・箕輪覚書等/旧記雑録)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461377
最終更新日:2009-03-01




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