ケータイ辞書JLogosロゴ 上井(中世)


鹿児島県>国分市

 鎌倉期から見える地名。大隅国小河院のうち。建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符に「小河院……上井二十五丁」とある(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。下って戦国期,文明17年3月,島津忠廉が島津忠昌に反して上井城を攻め,守将上井氏を敗走せしめた。忠昌は島津国久・同忠福・北郷敏久・樺山長久・平田兼宗らを遣わしたが,引き返した。しかし,この後,上井氏は当地に復している(本田兼親譜/旧記雑録,島津国史)。上井氏は天正10年12月には北郷忠相・島津忠広・本田董親ら12氏と連合して島津忠良の部将樺山幸久を生別府【おいのびゆう】に攻め(樺山善久入道玄佐譜・玄佐自記/旧記雑録),天文17年には上井筑前守為秋が廻・敷根両氏とともに本田董親の反乱に乗じて,小村などを焼き(貴久公御譜/旧記雑録,島津国史),反島津氏の行動をとったが,同年島津氏に降って島津貴久の麾下に入り,董親を攻撃して,上井為秋は下井の地を安堵されている(同前)。弘治2年3月,島津貴久が蒲生氏攻略のため松坂城を包囲した際には一族の上井伊勢守兼元が貴久側に参戦し(旧記雑録),翌年,蒲生城落城後には当地は島津以久に宛行われている(長谷場越前自記・箕輪伊賀自記/旧記雑録)。「上井覚兼日記」天正12年12月14日条によれば,当地は上井為秋が「北郷殿」(忠相)から預って領知していた地であったが,覚兼の父董兼の時(天文22年頃),薩摩国永吉に移封されたこと,しかし,天正9年頃に再び上井覚兼が当地を支配するようになったことなどがわかる。島津家の老中として重用された覚兼は当地の生まれであった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461400
最終更新日:2009-03-01




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