ケータイ辞書JLogosロゴ 網津村(近世)


鹿児島県>川内市

 江戸期〜明治22年の村名。高城【たき】郡水引郷のうち。なお,寛永6年までは同郡高城郷のうち。村高は,慶長4年加増目録では618石余(天保郷帳も同じ),「旧高旧領」では1,480石余。西南端の京泊は,慶長7年ドミニコ派のフランシスコが上陸し天主堂を建てて川内地方の布教の拠点とした。のち,慶長14年フランシスコは藩主の命により長崎に退去した。当村の庄屋には,元禄6年二ノ方作之丞,同10年児玉重右衛門,享保13年児玉甚兵衛などの名が見える(川内市史)。川内川河口にあたるため,当村には京泊・船間島などの浦が発達している。文化3年「諸浦御奉公並万上納物之定」では,京泊浦男女273人・浦47人立・雇72人立,魚運上銀43匁(船間島分も含む),船間島は浦男女335人・浦47人立・雇72人立。浦役には,天保7年鬼塚五左衛門,嘉永7年寺田孝右衛門の名が見える(浜田氏文書)。江戸初期藩主の休泊所(行館)が京泊に置かれた。のち,島津光久が承応2年船間島(箱崎とも称した)に移転,さらにのち草道村の平島に移された(三国名勝図会)。また,京泊には船手奉行所(のち対岸の久見崎に移転)・津口番所(寛政10年からは遠見番所も兼ねた)などが置かれた(列朝制度,薩藩政要録)。文化9年12月,船間島から江戸へ藩米を運ぶ船(永寿丸)が紀州熊野沖で難波した。漂流すること10か月間,北千島まで流された乗組員はロシア船に送られて,同13年7月エトロフ島に帰還する。生存者は船長喜三左衛門ら3人,「漂流紀聞」として記録が残る(川内市史)。川内川沿岸の低地には,干拓等によって開発された新田が多い。また,中央部には自然池で灌漑に利用される星原池がある(同前)。寺社には,京泊の浄土宗鎮西派鏡寺,船間島の臨済宗臨江寺,井上の小手洗大明神社,船間島の十郎太夫祠(船間島神社),月見岡山頂の愛宕祠などがある(三国名勝図会)。「県地誌」によれば,戸数407・人口1,701(士族233・平民1,468),牛103・馬74,日本形船39(805石積1・460石積1・その他37),漁船27,小学校は西部にあり生徒数男100・女1,物産としては米・麦・粟・大豆・甘藷・茶・煙草・石灰・鯛・鰕・雑魚など。明治22年水引村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461421
最終更新日:2009-03-01




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