ケータイ辞書JLogosロゴ 大姶良村(中世)


鹿児島県>鹿屋市

 平安末期〜戦国期に見える村名。大隅国禰寝院のうち。治暦5年正月29日付の藤原頼光所領配分帳案に頼経宛給分として「禰寝院内参村,大禰寝・浜田・大姶良」とあるのが初見(禰寝文書)。その後,文永4年3月5日付の沙弥道意(富山氏17代義宗)置文に,「村々置役事」として「大姶良 御佃用作一反丗卩 新加用一反丗 収納使田二反廿卩 笇失四反丗」,「禰寝院公事支配村々田数参十町内」として「大姶良村三丁六反」とある(志々目家文書/鹿大史学14)。田数については,年月日未詳(観応2年頃か)の浜田・大姶良・志々目・横山四ケ村田地書出案に「一 大姶良村分陸町柒段弐杖」とあり,天授3年11年21日注進の禰寝院見作田畠目録注進状案に「一 大姶良村 陸町柒段弐杖 損壱町柒段弐杖」とある。南北朝期には「大姶良城」をめぐって諸勢力の抗争があった。観応2年4月14日付の禰寝清成宛畠山直顕感状には「大姶良野頚城没落云々」と見えるが,同年8月7日付の同じく畠山直顕感状,同年8月日付禰寝清成軍忠状・建部清増軍忠状・禰寝清種軍忠状などによれば,同年3月27日「楡井四郎頼仲与党人大姶良新兵衛入道々心・同横山彦三郎・頼仲扶持人岡富三郎次郎入道以下之凶徒等楯籠,押寄当院大姶良城致合戦,同四月四日攻落之訖」という(禰寝文書)。また,文和元年12月25日には畠山直顕が得丸六郎五郎の「大隅国大姶良合戦」の軍忠を賞しており(雑抄/旧記雑録),貞治2年6月1日には島津氏久が「凶徒末次覚栄已下一族等為退治所打立也,来十五日以前,可被馳寄大姶良」と禰寝一族に軍勢催促をしているほか,康暦元年11月11日付の禰寝氏の西俣合戦手負注文にも「一 禰寝院内於大姶良城合戦」が見える(禰寝文書)。文和年間畠山氏の有に帰した大姶良には,のち畠山氏に代わり島津氏が進出,大姶良城は氏久の居城となり,元久は同城で誕生している。氏久が志布志へ去った後は,肝付氏らの領有するところとなったが,天正8年には再び島津氏領となった。この間,永和4年2月11日付島津氏久書下によれば「大姶良村内当知行地頭得分」が大姶良左近将監に安堵されており(同前),応永18年11月8日付島津久豊宛行状写には「今度依忠節,闕所出来時者,最前二十町所可宛行地」と「大姶良面々」に申し入れている(志々目家文書/鹿大史学14)。大姶良面々とは,富山志々女・大姶良・浜田・横山らで皆富山氏一族である。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461425
最終更新日:2009-03-01




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