ケータイ辞書JLogosロゴ 大口城(中世)


鹿児島県>大口市

戦国期に見える城名薩摩国伊佐郡のうち牛山城・牟田口城・日限城ともいう(大口市郷土史)羽月川流域で,現在の大口市の中心部に位置する「樺山玄佐自記」の永禄10年8月条に「玄佐も大口之城を先不被召取者,即時に求摩・八代之人衆可走籠と内心に思故」と記載されている(旧記雑録)また,「長谷場越前自記」の同年11月24日条をはじめ,「箕輪伊賀自記」「箕輪伊賀覚書」「北郷時久自記」などにも散見する(同前)いずれも島津氏の三州統一の際の菱刈氏との攻防に関するもので,永禄10年島津貴久が諸軍を率いて菱刈隆秋の馬越城を攻めたために,隆秋は当城に逃れ球摩の相良氏に救援を求めている以後,馬越城を本営とする貴久と当城に拠る隆秋の攻防が続き,同12年8月に隆秋軍は降伏し,新納忠元が大口の地頭となったなお,「三国名勝図会」には「牛屎氏は,安芸判官平基盛の裔なり,初め基盛が子,薩摩守信基,保元の軍功に由て,薩州牛屎院祁答院の両所を賜ふ,其四男薩摩四郎元衡,保元三年,八月十三日,始て牛屎院に下り,世々院司たり,此城を治所とす,因て牛屎を家号とせり」と記されており,また,「元弘建武の際,城主牛屎左近将監高元」と見えるこの所伝によるならば,平安期の創築ということになる標高225mの山城で,城址は大口市里の城山にある
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461449
最終更新日:2009-03-01




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