ケータイ辞書JLogosロゴ 大窪(中世)


鹿児島県>松元町

鎌倉期〜室町期に見える地名薩摩国伊集院のうち文永6年3月日の僧慶西所領譲状写に「ゆつりわたすうちのをゝくほのてんはくらの事」として,田地1町のうち「一所あなゆのまへ参段,一所くわんしやてん参段」その他が記載され,これらは「しそんせうかう」に譲られた正安2年11年3日のふちわらのうちのによ契状によれば初鶴御前が「をうくほのうちあなゆのまへのた三たん」を,伊集院用丸のうち原田垣本田あわせて1町2反とともに山田氏に譲っているこれに対して紀時道の孫にあたる大窪明賢は「大窪内温穴前田地三段事」について山田道慶を相手どって提訴している慶西の妻と思われる「せうあみたふつ」はこの訴訟をはじめ兵衛太郎(税所義祐)に依頼していたが,弘安2年7月10日には上総二郎(比志島時範)に変更した(山田文書/旧記雑録)当地は南北朝期に伊集院氏の支配下に置かれ,応永11年8月22日伊集院頼久・為久は「大窪鎮守田九段」を広済寺に寄進している(広済寺文書/旧記雑録)なお,前掲の文永6年3月日の僧慶西所領譲状写に「右件のてんはくら(田畠等)においてハ,こんけん(権現)のしきち(敷地)といひなから,僧きやうせいかせんそさうてんのしよりやうなりによて」とあり,大窪の田地は石谷の熊野権現に付随するものであったため鎮守田と称したものと思われる現在の松元町石谷の大久保に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461456
最終更新日:2009-03-01




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