ケータイ辞書JLogosロゴ 大小路村(近世)


鹿児島県>川内市

 江戸期〜明治22年の村名。薩摩国高城【たき】郡水引郷のうち。なお,寛永6年までは同郡高城郷のうち。村高は,慶長4年加増目録では431石余,「天保郷帳」では437石余,「旧高旧領」では806石余。庄屋には,元禄10年鬼塚孫兵衛,享保13年永田六右衛門,文化10年永田六右衛門などの名が見える(川内市史)。薩摩街道は対岸の東手村向田から川内川を渡り,北上して九礼(暮れ)橋を渡り,宮内村を経て麓村へ通じている。川内川河岸には浦町(大小路町)が発達しており,文化3年「諸浦御奉公並万上納物之定」によれば,浦男女133人・浦38人立・雇52人立,魚運上銀なし,漁師銀なし(列朝制度)。また,当村では12月13・23日に歳末市が開かれた。享保14年中郷村に天神池(京田池・芝之尾池ともいう)が開発され,この溜池の一部が当村にも含まれ当村の水田にも灌漑された。なお,このため干害時には用水権等をめぐって両村間に争論がたびたび起きた(川内市史)。寺院には,和銅元年建立と伝えられ天正15年豊臣秀吉の陣営地ともなった真言宗泰平寺,もと天平年間に建立され天正15年焼失後,寛文9年島津光久の再建という同宗国分寺がある(三国名勝図会)。なお,泰平寺には塩大黒天という大黒様があった(川内市史)。「県地誌」によれば,戸数385・人口1,778(士族430・平民1,348),牛37・馬35,日本形船7,荷車1,小学校は南部にあり生徒数男141・女26,物産としては米・粟・麦・大豆・甘藷・製茶・煙草・藺蓆・魚類など。明治8年対岸の向田との間に初めて木橋が架けられたが,同10年西南戦争の際戦火のため焼失。のち,架け替えられ,当村と向田が一体となり,川内町(川内市)の基礎となる。明治22年水引村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461466
最終更新日:2009-03-01




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