ケータイ辞書JLogosロゴ 大田(中世)


鹿児島県>伊集院町

 鎌倉期から見える地名。薩摩国伊集院のうち。建久8年の薩摩国図田帳に,伊集院のうちとして「大田十五町〈同(島津)御庄論〉万得〈名主〉在庁道友」とあり,隣接する寺脇・時吉とともに薩摩国在庁官人の大前道友の所領であったが,帰属関係をめぐって大隅正八幡宮と島津荘との間で相論の対象となっていた。また,鎌倉末期と推定される伊集院分造宇佐宮用途支配注文には「大田 肆拾肆疋 米壱石参合」と見える(島津家文書3/大日古)。「県地誌」はその後の当地の領主について「日置北郷ノ下司小野家綱ノ次子家長本村ヲ領シ,ヨツテ大田ヲ氏トス,家長ノ子忠家,忠家ノ子家氏皆本村ヲ領ス,家氏肥前松浦荘早湊村福万名ノ地頭ニ補セラレ松浦ニ移ル」と述べるが,小野姓大田氏以後は紀姓伊集院郡司一族が当地に住して大田氏を称した。鎌倉末期,文保元年の薩摩国御家人交名には大田入道跡の記載があり(鹿児島大学図書館蔵玉里文庫古文書類),南北朝期の興国3年と推定される御感綸旨所望輩注文には「属島津道忍(伊集院忠国)手一族以下輩」として「大田八郎左衛門入道蓮義」の名が見える(師久公御譜/旧記雑録)が,南北朝後期には伊集院忠国子息久氏の五男久勝が当地を領して大田氏を称するに至った(伊集院一流惣系図/県史料拾遺)。戦国期には長禄3年8月6日,伊集院煕久が「薩摩国伊集院大田内一町」を冠岳権現(現串木野市内)に寄進している(串木野頂峯院文書/旧記雑録)。宝徳2年,煕久が島津忠国に追われた後は当地は島津本家の直轄地となり,永正11年12月15日の伊集院諏訪祭礼番帳には「四番 大田名」とあって(伊集院由緒記/県史料拾遺),忠国の勧請した諏訪神社(南方神社)の祭礼を負担せしめられている。また,下谷口村之内麓西之久保の荘厳寺末寺内田坊境内にあった多賀大明神社の棟札裏には「大田名 一反 大渡里……御寄進 貴久 永禄元年戊午二月吉日」とあったという(同前)。大渡里とは伊集院町大田の西端,県道伊集院市来線の神之川に架けられた大渡里橋付近を指す。当地の東境,城山には一宇治城(伊集院城)が築かれた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461478
最終更新日:2009-03-01




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