ケータイ辞書JLogosロゴ 大村郷(近世)


鹿児島県>祁答院町

 江戸期〜明治22年の郷名。薩摩国伊佐郡のうち。はじめ,北郷氏領,慶長5年鹿児島藩直轄領,慶長19年日置【ひおき】島津氏領を経て,寛永10年からは再び鹿児島藩直轄領,外城の1つ。慶長5年藩直轄領となった際の当郷地頭は白浜重治。また,慶長19年それまで藺牟田・黒木の両郷を領した日置島津氏が当郷へ移封された際,西部の久富木村が当郷から分かれ山崎村とともに山崎郷を形成する。さらに,寛永10年日置島津久慶が東郷に転封され,藩直轄領にもどった時任命された地頭は菱刈重栄。当郷は,慶長19年以後,上手・下手・南方・北方の4か村からなるが,江戸前期は黒木郷を間に置いて,北部の南方・北方の2か村を中津川村,南部の上手・下手の2か村を大村とそれぞれ把握する場合も見られ,「元禄郷帳」等では大村,中津川村の2か村が見える。地頭仮屋は下手村の大村城(永福城)下に置かれ,周囲に麓が形成された。瀬早川西岸の街道沿いに麓と接続して野町が形成されており,毎年2月9日,12月25・27日に定期市があった。郷内4か村にはそれぞれ庄屋所が置かれ,郷士の中から任命された庄屋が各村を統治した。「薩藩政要録」では,地頭樺山権十郎,郷士惣人数544,郷士人体216,所惣高6,131石余,郷士高1,226石余,寺高9石,用夫803,野町用夫21。「要用集」では,地頭島津左膳,郷士総人数508,郷士人体222,所総高6,054石余,郷士高1,336石余,寺高9石,用夫652,野町用夫12。物産として火縄・紙・枳殻・茯苓・鶉・亀・鰻・川エビなどがあり,火縄は「本藩中にて当邑最多く製し出す,上品にして他に勝れり,故に大村火薬線と称じて銃具となす」という(三国名勝図会)。また,鶉は「此地ノ名産ニシテ其声他ニ勝リテ高シ,人是ヲ賞シ大村鶉トイフ」と見える(地理纂考)。明治4年鹿児島県に所属。同20年からは南伊佐郡のうち。明治4年伊佐郡治所の管轄下となる。のち大区小区制などを経て,同12年宮之城【みやのじよう】郡役所,同14年からは隈之城郡役所の管轄下となる。連合戸長役場は下手村に置かれた。「地理纂考」によれば,高6,493石余,戸数767・人口3,335(士族1,118・卒95・平民2,122)。「県地誌」では,戸数893・人口3,518(士族1,299・平民2,219)。明治22年当郷4か村は大村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461500
最終更新日:2009-03-01




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