ケータイ辞書JLogosロゴ 加治木郷(中世)


鹿児島県>加治木町

 平安末期〜戦国期に見える郷名。大隅国のうち。保延元年2月1日の宮永社役支配状に「加治木郷内 宮永 崎守」,同年2月2日の宮永社役支配状に「加治木内 宮永 用丸捌町」とあり(旧記雑録),大隅正八幡宮の修理・遷宮用途を負担する宮永名が当郷内に存在した。鎌倉期,建久8年の大隅国図田帳には「加治木郷百廿一丁七段半 正宮(大隅正八幡宮)新御領 本家八幡(石清水八幡)地頭掃部頭」とあり,正八幡宮の半不輸領で,公田永用・鍋倉村・宮永・万徳などの所領単位から構成されていたが,地積106町余で郡司大蔵吉平妻の所領である公田永用が当郷の大部分を占めていた。また,建治2年8月の大隅国在庁石築地役配符では「加治木郷百四十五丁五段〈除貢進田五丁 定百四十丁五段半〉」とあり,公田として本名永用50町・久永20町・永富20町2反・吉原10町・鍋倉3町・宮永崎守8町・本名用丸5町・永谷3町,万得(徳)として郡本1町2反・辺河4町があるほか,九体堂・法楽寺・新三昧・肥喜寺などの寺田20町が存在していた。このうち,永用・久永・吉原などは郡司氏平・木田通平・吉原俊平ら大蔵姓加治木氏の一族の所領である。加治木氏は,平安中期に当地に土着した渡来人系の大蔵氏の子孫で,大蔵良長の女肥喜山女房と寛弘3年当地に配流された関白頼忠息経平との間に生まれた経頼が大蔵氏を継いで加治木姓を名乗り,加治木郡司として当地を領有したものという(加治木郷土誌)。図田帳の加治木郡司大蔵吉平や石築地役配符の郡司氏平はともに加治木氏系図に見えている。南北朝期,観応の擾乱の頃,南九州では足利尊氏・大隅守護島津氏方(将軍方)と足利直義・直冬・畠山直顕(佐殿方)の両勢力が抗争したが,文和年間の大隅国将軍方交名注文・正隅国直冬方交名注文によれば,将軍方に加治木中務入道,佐殿方に加治木彦次郎一族がおり,一族対立の様相がうかがわれる(道鑑公御譜/旧記雑録)。文和2年2月1日には島津氏久が一色道猷から「大隅国加治木院〈加治木郡司跡〉地頭職」を宛行われている(氏久公御譜/旧記雑録)が,長く保持し得なかったらしい。また,正平12年10月5日付島津師久書状によれば,渋谷一族が畠山直顕に加勢するため,加治木郡司一族を相かたって加治木城(現加治木町反土)に入ったため,この頃南朝方であった島津師久は当地でこれと交戦している(旧記雑録)。この後も加治木氏が当地を支配したが,室町期の明応4年6月29日,加治木大和守氏平が島津氏に反して,帖佐城(姶良【あいら】町帖佐鍋倉)を襲ったため,翌7月には島津忠昌に攻められ,翌5年2月には加治木氏は当地から阿多城に移封された(忠昌公御譜・肝付伴兵衛兼屋文書/旧記雑録,島津国史)。以後,当地は島津氏の直轄領となり,明応5年と推定される伊地知重貞書状に「当時加治木地頭職之事,依我等承候」とあるので(旧記雑録),伊地知重貞が当郷地頭に任ぜられたことが知られる。しかし,大永7年4月に伊地知重貞が帖佐地頭島津昌久とともに反したため,同年6月5日島津忠良によって滅ぼされ,当郷は肝付兼演に与えられた(貴久記/旧記雑録,島津国史)。肝付氏も天文18年島津氏に反旗を翻し,同年5月29日,島津貴久は伊集院忠朗を遣わして加治木城に肝付兼盛を討たしめたが,同年12月29日兼盛は起請文を捧げて和睦し,翌年4月には当郷が再度,兼演に宛行われ(北郷忠相譜・雑抄/旧記雑録,島津国史),文禄の検地に至るまで肝付氏が領地した。文禄検地後の文禄4年6月29日付豊臣秀吉朱印知行方目録では「大隅国姶羅郡加治木之内」の「木田村・高井田村・西別府村・日木山村・段生(土カ)村・小山田村・佳例川村・竹子村・みそ(溝)辺村・崎森村」の合計1万石が太閤蔵入分となり石田三成が代官に任じられている(島津家文書2/大日古)。慶長4年正月9日,朝鮮の役における島津氏の勲功として,加治木郷10か村は島津忠恒に返還された(県史)。中世における当郷域は現在の加治木町域よりも広く,保延2年の宮永社役支配状,建久8年の大隅国図田帳,建治2年の石築地役配符あるいは永享3年3月の大隅国留守所下文(調所氏文書恒房伝/旧記雑録)には溝辺町崎森に比定される宮永崎森や姶良町鍋倉に比定される鍋倉村が見えている。また文禄4年の知行方目録の佳例川村は隼人町,竹子町・みそ辺村は溝辺町域に相当し,中世の当郷域は加治木町を中心として姶良町・溝辺町・隼人町の一部を包摂していたと考えられる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461588
最終更新日:2009-03-01




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