ケータイ辞書JLogosロゴ 加治木郷(近世)


鹿児島県>加治木町

 江戸期〜明治22年の郷名。大隅国始羅郡のうち。はじめ鹿児島藩直轄領,寛永8年からは加治木島津氏領,外城の1つ。江戸初期の当地は島津義弘の隠居料に当たり,加治木城は中世の大蔵氏等の拠城である加治木本城の南に義弘が築いた屋形城である。さらに義弘は城下の網掛川河口を港とし,麓をつくった。加治木島津氏は寛永8年,島津家久の第3子忠平(のちの忠朗)が当郷のほかに帖佐・蒲生・清水・大姶良・水引・東郷・飯野・馬越等の郷内諸村を合わせ1万石給せられ,四一門家の1つとして創立,同10年当郷を一所地と定められる(県史)。歴代領主は,忠朗・久薫・久季・久門(のちの藩主重年)・久方(のちの藩主重豪)・久徴・久照・久徳・久長・久宝。久徴は錦水と号し詩文を好み,「名山楼詩集」3冊を残す。領主仮屋は加治木城に置かれる。当初当郷は,反土(段土)・高井田・木田・三縄・日木山・西別府・小山田の7か村からなり総高6,096石余であったが(寛文4年郡村高辻帳),その後,三縄村が分離して溝辺郷に移り,反土・高井田・木田・日木山・西別府・小山田の6か村となる。安永7年「三州御治世要覧」では,総高1万986石余。「薩藩政要録」では,家中士惣人数1,827,家中士人体790,所惣高1万208石余,家中高8,013石余,寺社高467石余,用夫469,浦用夫987。また,同書「宗門手札改」では,家来総人数3,211,百姓2,625,浦浜2,043,足軽以下630,その他104。「要用集」では,家中士総人数1,818,家中士人体815,所総高1万172石余,寺社高493石余,用夫857,浦用夫868。農村統治のため各村ごとに庄屋所が置かれ,郷士(家中士)を中心に庄屋が任命された。当郷は鹿児島城下,北薩,大隅・日向を結ぶ交通の要衝に当たり,反土村では毎月5・9日に六斎市がたった。特に網掛川河口の加治木港は,「三国名勝図会」に「凡隅州菱刈郡,桑原郡,日州諸県郡,真幸院地方等の人民鹿児島に往来するには必ず当邑に出て舟路を取る,其舟路の出入は此(網掛川)海口に於てす,故に当邑は人煙頗る繁庶なり」と見え,また,往古より海外貿易港でもあり,海中には澪標(沖の三穂木・中の三穂木・潟の三穂木とも呼ばれる)という水の深さを示す木があった。さらに,天正〜寛永年間頃に中国の洪武通宝などを模倣して裏面に「加」「治」「木」の一字を鋳込んで多量に鋳造された私鋳銭(加治木銭)の存在も,当時の海外貿易の様相を物語る。そのほか港では,冬季桜島ダイコンの取引が行われた。北部の西別府村には牧馬苑があった。寛文3年木田村,天保12年日木山村黒川にそれぞれ新田が開発された。物産としては,桃木石・白石・人形石・紙・陶器・傘・瓦・線香・馬具・酒・塩・煙草・海苔類・樟・桐・櫧・雉・魚介類等がある(三国名勝図会)。加治木のクモ合戦は,文禄・慶長の役の陣中で兵士の余興のかたわら,士気を鼓舞するために,女郎グモの雌を集めて闘わせたという言い伝えにちなんで,毎年端午の節句に行われるようになったという。ほかに,西別府の太鼓踊りは歴史が古い。明治4年鹿児島県,都城県を経て,同5年鹿児島県に所属。明治4年には高井田村が木田村に編入され,反土村南部の港を中心とする町場が加治木町として分立。「地理纂考」によれば,高1万173石余,戸数2,117,人口9,386(士族3,686・卒375・平民5,325)。同5年加治木・溝辺・山田・横川・蒲生・重富・帖佐・栗野・吉田の諸郷を管轄する郡治所が置かれる。のち,第1支庁・第59大区を経て,同12年には姶良・桑原・曽於【そお】の3郡を管轄する郡役所が設置される。なお,同郡役所は同14年から姶良・桑原・菱刈・曽於の4郡,同20年からは姶良・桑原・西曽於の3郡を管轄。明治10年の西南戦争では鹿児島が戦場となったため,同年9月〜翌10年8月まで約1か年間仮県庁が置かれた(加治木郷土誌)。同22年当郷1町5か村は加治木村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461589
最終更新日:2009-03-01




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