ケータイ辞書JLogosロゴ 加治木城(中世)


鹿児島県>加治木町

南北朝期から見える城名大隅国姶羅【あいら】郡のうち本城・古城・竜門ケ城・大蔵城とも称す延文2年5月の建部清増軍忠状に「去延文元年十月廿五日,薩州凶徒大将三条侍従泰季并嶋津三郎左衛門尉氏久以下,率数多軍勢,寄来加治木城」とある(旧記/旧記雑録)「三国名勝図会」には寛弘3年に関白藤原頼忠の第3子経平が加治木に配流され,大蔵良長の女を娶り,その子経頼が大蔵氏を嗣いだという所伝を載せている大蔵氏は後に加治木氏を称した下って,戦国期に,加治木久平は島津氏に背いたため,明応4年に島津忠昌の攻撃を受け,翌5年久平は降伏したそして,加治木氏は長く支配していた当地から薩摩の阿多に移された(国史・忠昌公譜/旧記雑録)その後,当地の地頭として伊地知周防守重貞が入城したが大永7年に島津氏に討たれた(国史/旧記雑録)代わって入った肝付兼演も島津氏に反抗し,一時当地を没収されたが,ほどなく当地に復している兼演の子兼盛が城主であった天文23年には島津氏に背く蒲生範清や渋谷一族,菱刈・相良氏などの軍勢に当城を包囲された当城の救援に出向いた島津貴久は渋谷一族の祁答院良重の拠る岩剣城を攻撃,落城させ,当城についてもその包囲を解いている(国史・貴久公譜/旧記雑録)次いで,文禄4年に加治木郷内の1万石が豊臣氏の直轄領となると,それにともない肝付氏も喜入に移封となったしかし,文禄・慶長の役後,その軍功により1万石は復し,当地は島津義弘の領するところとなる義弘は当初当城に入る予定であったが,新たに加治木館を築き,慶長12年11月に移った加治木館の近隣には加治木麓と呼ばれる島津藩政期の家臣居住地域が作られ,天和2年には176名の家臣の屋敷が存在した各屋敷には城郭的な機能が認められ,軍事拠点の性格を有するものであったことがわかる(日本城郭大系)城址は加治木町反土町にあり,郭・空堀・土塁などの跡が認められるまた,加治木館址は加治木町仮屋町の護国神社境内にあり,加治木麓は反土町・仮屋町に比定される
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461594
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ