ケータイ辞書JLogosロゴ 加世田別符(中世)


鹿児島県>加世田市

 鎌倉期〜室町期に見える別符名。薩摩国のうち。薩摩半島南西部,万之瀬川下流左岸流域から同半島西端野間岬に及ぶ地を占める。「和名抄」に見える阿多郡鷹屋郷から成立した(県史)。建久8年の薩摩国図田帳によれば,「加世田別符」田数100町とあり,社領25町・公領75町から成る。社領は宇佐八幡宮別当寺である弥勒寺領で下司塩田太郎光澄。公領75町のうち,山田村25町に名主肥前国住人石居入道,千与富40町に郷司弥平五信忠とあり,いずれも島津荘寄郡で地頭右衛門兵衛尉(島津忠久)が臨み,村原15町は没官領,すなわち平家謀反人阿多四郎宣澄旧領で,地頭左女島四郎(鮫島宗家)の所領であった。郷司信忠は,古代末期この地方に勢力をはっていた薩摩平氏の一族別符五郎忠明の子で,その子孫は別符郡司を称し,南北朝期には右馬権助忠香が南朝方にあって島津氏に抗した。康永2年3月26日足利尊氏下文によれば,「加世田別符半分」が伊作氏に与えられた。これには「相模六郎時敏跡」とあって,鎌倉末期この地の地頭職は北条氏一門の所領であったことが知られる(伊作譜/旧記雑録)。また,残りの「加世田別符半分地頭職」も文和元年12月12日足利尊氏下文によって島津貞久の庶長子川上頼久に与えられている(川上頼久譜/同前)。室町初期別符氏は,忠種が島津氏に抗して,その領国経営を妨げていたが,応永27年忠種の子とみられる平五郎丸のとき,守護島津久豊の招きに応じて,その婿となり,ついに服属した。文明6年行脚僧雑録によれば,加世田は出水郡を本領とする薩州家島津国久の所領となっていた。天文8年1月1日伊作家島津忠良(日新)は加世田城を攻め落とし,かねて守護職を競望していた薩州家島津実久(国久曽孫)の勢力を一掃すると,ここに移り住み,三州統一の一拠点とした。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461607
最終更新日:2009-03-01




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