ケータイ辞書JLogosロゴ 加世田郷(近世)


鹿児島県>加世田市

 江戸期〜明治22年の郷名。薩摩国河辺【かわなべ】郡のうち。鹿児島藩直轄領。外城の1つ。武田・川畑・村原・地頭所・益山・宮原・唐仁原・小湊・大浦・赤生木・片浦・津貫・内山田・別府田間の14か村からなる。武田村の加世田城(別府城)の下に麓がありその中心に地頭仮屋が置かれ,川畑村に野町が置かれた。鹿児島から約40kmの地に当たる。天文8年に新納康久が最初の地頭に任命され,江戸期最初の地頭は島津下野守である。庄屋役所は武田・内山田・津貫・川畑・村原・益山・唐仁原・小湊・大浦・片浦の10か所に置かれてそれぞれ庄屋が任命された。のち,明治初年村原は川畑に,唐仁原は益山に,武田は内山田に合して7人となった。江戸初期の郷内総高1万3,450石余。安永年間以前の戸口は3,957戸・2万5,506人,うち郷士861戸・5,450人,下人78戸・501人,百姓2,154戸・1万3,797人,浦人752戸・4,958人,野町42戸・331人,その他70戸・469人(加世田郷土誌)。「薩藩政要録」では,地頭島津但馬,郷士惣人数2,853,郷士人体824,所惣高1万3,458石余,郷士高3,555石余,寺高441石余,用夫5,158,野町用夫69,浦用夫2,571。嘉永4年では,地頭川上筑後,郷士総人数2,927,郷士人体943,所総高1万3,574石余,郷士高3,787石余,寺高464石余,用夫4,708,野町用夫40,浦用夫2,701(要用集)。「地理纂考」では,高1万3,458石,戸数6,335,人口3万1,595,うち士族5,783・卒31・平民2万5,781。郷内北東部を万之瀬川が東から北に阿多郷との境界を流れ,下流は田布施郷に至り,その後海に注いでいる。古くは,同川は益山村・唐仁原村・小湊村などの中を流れていたが,享和2年の大洪水により下流の流れが変化し,以来これを新川と呼ぶようになり現在はその地名が残る。鹿児島藩においては,外城制度により膨大な郷士人口が各郷麓に居住し農民・町人等を監視していたため,顕著な形での百姓一揆の発生が極端に少ない。その中で,農民の抵抗運動として安政5年の加世田一揆があげられる。当郷の下級郷士の多くは在郷にはいりこんで農耕に従事したり,職人となったりしてその窮乏に耐えていたが,11月18日麓居住の上級郷士との貧富の差・一向宗弾圧に憤激したこれらの下級郷士は,各々武器をたずさえ小松原の蔵元に集合した。これに百姓・町人らが加わり,麓を襲撃しようとしたが,日新寺住持の仲介で20日には一揆勢は鎮静された。なお,事件後永田助左衛門以下8人の首謀者が処罰された。物産として黒石碁子・砥石・陶土・綿布などがある。また斧・鎌・菜刀・釘・小刀などは「多く本府に出たす,且琉球三島に下るといふ,世上に加世田鍛工といへることあり」と伝える(三国名勝図会)。加世田鍛冶は以後伝統を守り続け,加世田鎌などの名声を博しているが,最近では業者も少なくなり,内山田・小湊などにわずかに残るのみである。明治4年鹿児島県に所属。同9年別府田間村が武田村に合併。明治5年伊作郡治所,同12年には給黎【きいれ】郡知覧郡役所の管轄となった。明治11年各村ごとに戸長役場が設置されたが,同17年戸長役場は3か所に統合された。同22年当郷のうち武田・内山田・津貫・川畑・村原・地頭所の6か村は加世田村,唐仁原・小湊・益山・宮原の4か村は東加世田村,大浦・赤生木・片浦の3か村は西加世田村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461608
最終更新日:2009-03-01




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