ケータイ辞書JLogosロゴ 加瀬田城(中世)


鹿児島県>輝北町

南北朝期〜戦国期に見える城名大隅国肝付【きもつき】郡のうち高雲加瀬田城,平房城といい,加世田城とも書く肝付兼重が南朝側によって挙兵したことに対し,足利尊氏は島津貞久を薩摩・大隅の総帥として薩隅警固の命を与えている建武3年4月,肝付兼重の甥である「肝付彦太郎兼隆等」が「拠加世田城〈在肝付郡〉以党義貞」とあったので,島津貞久は4月14日,重久篤兼に対して早く加瀬田城に向かって対峙するよう檄を発している5月5日島津貞久は日向国中郡姫木城を攻め,三俣の肝付兼重に備えた後,5月6日に「本田久兼等為軍奉行,帥二階堂紀伊権守行久,篠原孫六国道,莫禰次郎太郎成長入道円也,杉三郎入道道悟等」をして加瀬田城を囲ませたそして6月10日に,野上田・郡山・莫禰・二階堂氏らが夜襲を行ったため,加世田城は落城し,島津貞久は野上田・莫禰氏を守将に残して引き上げている(国史・道鑑公譜・阿久根氏文書・田代氏文書など/旧記雑録)観応2年8月の禰寝清成軍忠状などによれば,観応2年4月10日に楡井頼仲の弟である又四郎頼重が「楯籠,押寄当国肝付郡加世田城,連日致合戦」状態であったので,畠山直顕は禰寝清成・清種をして攻めさせ,8月3日に落城させている(禰寝文書)その後,文明年間,志布志の新納忠武は島津久豊に反し,加世田城を陥れているしかし,天文年間には肝付兼続が新納氏から奪回したが,肝付氏が滅亡した後は島津氏の支配下に入っている(県史・輝北町郷土誌)曽於【そお】郡輝北【きほく】町平房の地にある城は帯状の狭い水田地帯に突出した台地端を利用して本丸・二の丸・三の丸が設けられており,東西は平房川,北面は数十mの深谷で,南西面には小川が流れ,平房川に注いでいる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461612
最終更新日:2009-03-01




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