ケータイ辞書JLogosロゴ 上之村(近世)


鹿児島県>横川町

 江戸期〜明治22年の村名。大隅国桑原郡横川郷のうち。村高は,「天保郷帳」1,302石余,「旧高旧領」1,872石余。山ケ野金山は西接する曽木郷永野村(伊佐郡)までかかっており,寛永17年の発見で,試掘は永野側に始まる。翌年から藩の主導のもと,北郷久加を金山総奉行として採掘に及ぶが,寛永末の全国的な飢饉の影響などで同19年採掘停止。他領の者を帰郷させ,金山の隠し掘りを禁止し,外垣をめぐらし番手を見回らせて取締った。その後,17世紀中頃藩は2万貫にも及ぶ負債をかかえる財政困難となり,これを救済すべく明暦2年に採掘を再開。両山合わせて,同年の間歩頭158人,金掘り1,580人,せり場頭199人,洞石洞引鉢取670人,商人800人,荷下日雇890人,川丁場310人。万治2年には年間に498貫299匁を産出するが,享保以降は衰退する。また,奉行役所は山ケ野・永野の2か所に置かれたが,のち山ケ野1か所となる。山ケ野に限れば,「三国名勝図会」に,「凡竈戸三百許にして多くは陶金戸なり,人口一千にも及べども自他州の出入日々増減ありて一定せず,家ごとに沙金製法の器を設け,男女其産業を勉て怠らず」と見える。産出された金の両替は,明暦3年には我古市郎衛門・江戸糸屋与四郎などが請負い,金100貫について銀193貫を運上としていたが,のち藩庫(御物)両替となる。この際金山の運上は五部銀・一当銀等の多様にわたる。のち,明治10年フランス人鉱山技師ペー・オジェーを雇用して技術革新を図るが,資金難で遂行できなかった(横川町郷土誌)。寺社には,寺院跡と伝える阿弥陀堂,金山の山神社,腰越神社などがある(三国名勝図会)。明治12年金山小学校(のちの山ケ野小学校),同14年上ノ村小学校(のちの安良小学校),同18年高木分教場(のちの高木小学校)がそれぞれ設立。明治22年横川村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461677
最終更新日:2009-03-01




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