ケータイ辞書JLogosロゴ 蒲生院(中世)


鹿児島県>蒲生町

 鎌倉期〜戦国期に見える院名。大隅国のうち。建久8年の大隅国図田帳によれば,蒲生院は経講田2反を除く110町7反半が正宮領であり,本家は石清水八幡宮であった。正宮領は59町1反の不輸田と51町6反半の応輸田(国方所当弁田)とからなっていた。これを建治2年8月日付大隅国在庁石築地役配符に見ると「蒲生院百四十二丁三百歩」と3割弱の増加を示し,末(米)丸・久得・久富・久松・久末・法師丸・武友・今富・脇本・恒見の諸名を掲げている(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。これらのうち,米丸・久得・久末は現在の蒲生町内に,また脇本は姶良【あいら】町内にそれぞれ比定できるが,他の諸名の比定地は未詳。ただ蒲生氏系図に,3代清直の弟清高が「沙汰浦ト号ス」とあるところから,現在の吉田町の東・西佐多浦も蒲生氏の所領に属していたと推定できる。南北朝期には,文和2年大隅国直冬方交名注文に「蒲生彦太郎一族」とある(氏久公御譜/同前)。彦太郎は10代清冬である。その後文明6年8月の行脚僧廻録に「豊州之御持城,帖佐・平山・高城・上之山・平瀬・蒲生・北村・溝辺」とあって(旧記雑録),室町期の文明年間には蒲生城・北村城ともに島津季久に属しており,これは蒲生氏14代宣清が当時給黎に在った(蒲生氏系図)ことと符合する。さらに文明19年2月18日平田兼宗・村田経安連署坪付は,大隅国蒲生院が島津忠昌の手にあったことを示している(田代家文書写/県史料拾遺)。明応4年,忠昌は宣清を本領に復した(県史)。弘治3年4月蒲生氏退去後に,蒲生は島津貴久の有に帰し,文禄4年豊臣秀吉朱印状に「蒲生之内三ケ村」は,島津義弘の蔵入分となっている(島津家文書)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461702
最終更新日:2009-03-01




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