ケータイ辞書JLogosロゴ 蒲生郷(近世)


鹿児島県>蒲生町

 江戸期〜明治22年の郷名。大隅国始羅郡のうち。鹿児島藩直轄領,一部私領。外城の1つ。初代地頭は比志島国守。「本藩人物誌」に,弘治3年10月「蒲生落城後地頭被仰付,郡山ヨリ蒲生ヘ移ル」とある。寛文4年の「郡村高辻帳」によれば,漆・木津志・北・久徳・白輪・西浦・久末・米丸の8か村からなっていたが,久徳村は延宝4年上久徳村・下久徳村に分かれ(三州御治世要覧),木津志村は元文年間山田郷に属す。安永7年「三州御治世要覧」および「薩藩政要録」では漆・上久徳・北・下久徳・白男(白輪)・西浦・久末・米丸の8か村からなる。うち下久徳村は越前島津氏領。麓の中心八幡馬場に地頭仮屋が置かれ,8か村には郷士中から任命された庄屋が居住し,30石内外の庄屋浮免と称する土地を給せられていた。野町には別当(無給)を置いた(蒲生郷土誌)。寛永16年御分国中惣高并衆中乗馬究帳では,郷士高2,605石余,郷士人数315(旧記雑録)。元禄7年の郷士高2,483石余,郷士人数843,安永3年の郷士高2,835石余,郷士人数1,468(蒲生郷土誌)。「薩藩政要録」では,地頭種子島六郎,郷士惣人数1,506,郷士人体725,所惣高9,453石余,郷士高3,103石余・寺高83石余,用夫574・野町用夫84。「要用集」では,地頭菱刈杢之介,郷士総人数1,552,郷士人体768,所総高9,381石余,郷士高3,215石余・寺高83石余,用夫494・野町用夫84,寛永13年の人数3,486,嘉永6年の人数4,524。明治4年正月,白男村の炭焼願副申書奥書に「地頭仁礼平輔」とある(蒲生郷土誌)。同年鹿児島県,都城県を経て,同5年再び鹿児島県に所属。同5年加治木郡役所管轄下となる。同年戸長9名,戸長助(副戸長)13名,村詰副戸長(旧庄屋)8名が任命された(蒲生郷土誌)。同12年姶良郡加治木郡役所管轄となる。明治14年「姶良桑原囎唹郡役所管内一覧」によれば,郷内には4戸長役場が置かれた。上久徳村には2つの戸長役場が置かれ,一方は上久徳村,他方は蒲生町・下久徳村・久末村を管轄,漆村戸長役場は漆村・米丸村を管轄,北村戸長役場は北村・白男村・西浦村を管轄した。明治13年の戸数1,462,うち士族802・平民660,人口6,673,うち士族3,662・平民3,011。物産としては蒲生苧があり,米丸村から産するものが最もすぐれ,ほかに上久徳村の蒲生紙がある。明治22年蒲生郷8か村は蒲生村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461703
最終更新日:2009-03-01




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