ケータイ辞書JLogosロゴ 河上名(中世)


鹿児島県>市来町

 鎌倉期〜戦国期に見える名田名。薩摩国市来【いちき】院のうち。弘安5年3月11日の橋口家忠申状に「欲早任祖母道阿弥陀仏譲状,賜安堵御下文市来院内河上名主職事」と見え,橋口家忠が宝治元年5月5日に祖母から譲与された当名名主職について安堵の下文を下されることを願い出ている(河上家文書/旧記雑録)。次いで,文保元年8月20日の河上家光宛の鎮西御教書,嘉暦4年7月の大蔵氏代道円重申状などによると,この時期に当名内の田・園をめぐり相論が起こったことが知られる(同前)。南北朝期になると当名の地頭職のことが見え,延元2年6月4日の三条泰季御教書では河上家久に預け置かれ,貞治6年6月27日の島津氏久・基久連署安堵状では「市来院内河上村地頭職」が河上家長に安堵されている(同前)。以後,村として見えることが多い。下って,寛正3年4月15日の市来院之内坪付に「八町 河上」(同前)と見え,享禄3年4月6日の島津勝久宛行状では「河上名十二町并牛江三町」が河上上野介に宛行われた(川上氏文書/旧記雑録)。牛ノ江の集落名も市来町内にある。さらに天文4年11月7日の島津実久感状でも串木野・荒河とともに当地が河上上野守に与えられている(同前)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461727
最終更新日:2009-03-01




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