ケータイ辞書JLogosロゴ 上名村(近世)


鹿児島県>吾平町

 江戸期〜明治22年の村名。大隅国肝属郡姶良郷のうち。「元禄郷帳」「天保郷帳」「三国名勝図会」では姶良町村と見える。天保11年「姶良名勝誌」によれば,当郷は上古より町村・浅井村・荻原田村の3か村であったが,のち上名村・下名村の2か村となった。しかし御用不便であったため延宝年中,町村は上名村に,浅井村は麓村に,荻原田村は下名村になったという。村高は安永3年姶良郷高辻一紙総帳では2,421石余(杉木家文書/吾平町誌),「天保郷帳」では姶良町村として見え,677石余,「姶良名勝誌」では2,676石余,「旧高旧領」では2,688石余。姶良郷高辻一紙総帳によれば門数86・屋敷数4・人数1,286。「姶良名勝誌」によれば竈数243・人体1,133。「吾平町誌」によれば幕末の門数87。寺院には曹洞宗源翁派泉渓寺末寺の玉泉寺,同宗福昌寺末寺の含粒寺,同宗含粒寺末寺の寂光山西方寺などがある。神社は鵜戸【うと】神社。明治初年,麓村の正若宮八幡宮を当村に遷座,跡地に鵜戸神社が移された。明暦年間〜寛文年間に当村を水源地とする中新田溝・東新田溝・西新田溝がつくられ,大用水路により下流地域の水田開発が行われた。開田のための労力は人口過剰な西目【にしめ】(薩摩半島)に求められ,移住は明治初年まで続いた。西目川路は明治初年今和泉からの移住者による集落である。明治22年姶良村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461779
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ