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- 上名村(近世)とは
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上名村(近世) 江戸期~明治13年の村名大隅国肝属【きもつき】郡鹿屋【かのや】郷のうち大窪・大久保村ともいう大隅半島中央部,肝属川上流部に位置し,西部は高隈【たかくま】山地,東部は笠野原台地に接する「諸郷村並浦附」「薩藩政要録」「旧高旧領」「地理纂考」には上名村,「元禄郷帳」「天保郷帳」「三国名勝図会」では大窪村と見える「鹿屋名勝志」には「先年者大久保村と相唱候由申伝候,何年簡より当分の上名村に相成候儀前条同断相知不申候,享保11年より右上名村垂水先領主島津玄蕃殿持切在に御座候」とある村高は,「天保郷帳」では1,175石余,「旧高旧領」では2,125石余当村中央部の沖積地には江戸末期上方限(現上祓川町),中方限(現祓川町),下方限(現下祓川・西祓川町)と呼ばれた行政区画があり,古い集落が散在する慶長17年,かつての鹿屋・大姶良【おおあいら】郷の領主島津久信(垂水島津4代)は,村内木場門(現祓川町)に1,800石を領して隠居し,享保9年には再度当村高1,708石余が垂水島津氏の遠地領となり,垂水郷の庄屋が置かれ,真米8斗3升・赤米3升・粟1石6斗8升が給せられた(垂水市史)寺街道にあった真言宗五代寺は垂水成就院の末で,高隈岳近戸宮三所権現(現瀬戸山神社)の別当寺であったが,明治初年に廃された(三国名勝図会)明和5年の「神社史」によれば,瀬戸山権現は大久保門の瀬戸山北麓にあったが,明治中期頃近戸宮三所権現の地に移転したなお当神社は大正2年川瀬櫃神社・源王神社を上名村内各方限から合祀し,3月に行われる棒踊りは各方限から奉納される旧高隈街道は現在の西祓川町洗出から笠野原台地へ登り,その西端を北上して高隈へ通じていた当時の道路は,排水溝の機能も果たしたため,洗出の地名が生じたというなお街道の並木は昭和9年台地の耕地整理事業により伐採された明治13年祓川【はらいがわ】村と改称(県史政治部県治) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
上名村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
上名村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
上名村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
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上名村(近世) 江戸期~明治10年の村名伯耆【ほうき】国日野郡のうち日野川の支流藤屋川中流に位置する鳥取藩領村高は,拝領高58石余,「元禄郷村帳」58石余,「天保郷帳」74石余(うち新田高15石余),「元治郷村帳」77石余,「旧高旧領」77石余元禄の本免は4.4,「元治郷村帳」の物成は27石余戸口は,「伯耆志」12戸・52人,「文久3年組合帳」12戸「伯耆志」によれば,隣村へは東の二部村へ14町,南の焼杉村へ8町,西の須鎌村へ4町,北の藤屋村へ4町また,氏神は福吉村にある天大明神・八幡宮および当村の王子権現で,王子権現の社地は東西30間・南北30間,社は方2尺,祭日は9月19日,ほかに小祠3,辻堂2がある明治4年鳥取県,同9年島根県に所属同10年須鎌村・藤屋村と合併して福居村となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」