ケータイ辞書JLogosロゴ 給黎院(中世)


鹿児島県>喜入町

 鎌倉期〜室町期に見える院名。薩摩国のうち。建久8年の薩摩国図田帳に「給黎院四十町 島津同御庄寄郡 郡司小大夫兼保」とある。なお,喜入肝付家文書(鹿児島大学所蔵)所載の同帳には,これに「地頭右衛門兵衛尉(島津忠久)」の記載があり,島津家文書ではこれが脱落していることが知られる。郡司兼保は伴姓和泉氏で,和泉荘を本領としていた。寛喜元年9月5日関東下文・同10月6日六波羅下文によれば,伴保久(兼保の孫)は,「泉庄弁済使下司・給黎院郡司職并上籠・石村両村」の領知を安堵されている(和泉氏文書/旧記雑録)。この下文は,とくに給黎院における所職・所領が池田平次師忠の濫妨を受けたので,その停止を求めて与えられたものであった。この後和泉荘は保久の長子保道に,給黎院は次子保俊に譲られた。延慶2年10月2日鎮西下知状によれば,保俊の子三郎資保は,保道の子和泉左衛門次郎入道法有と和泉荘椙村内田畠在家について相論したが,法有の領掌が下知された(伴氏六代周防守兼藤譜/同前)。資保(保宇)はまた元亨3年来新田八幡宮正月七日若菜御供米を抑留したので,元徳2年10月29日鎮西下知状によってその弁勤が命ぜられた(水引権執印文書/同前)。一方,同院地頭職は忠久から忠時,長久(忠時三男),忠宗(4代),実忠(忠宗三男)に譲られ南北朝期に及んだ。延元4年6月村田輔阿闍梨如厳軍忠状によれば,如厳は伊集院忠国の手に属して,地頭和泉実忠代官の守る院内上籠・網屋両城を攻略した(村田家文書/同前)。室町期応永初年守護島津元久は谷山・給黎・揖宿【いぶすき】・頴娃【えい】を手中に収めると,これらを弟久豊に与えた。応永10年久豊が日向に去ると,給黎院は伊集院頼久が領した。応永21年守護久豊は頼久を討って給黎院を取ると,上永吉20町を重臣大寺氏・長野氏に,下永吉20町を実忠の子孫和泉氏に与えた(山田聖栄自記/県史料集)。この上・下永吉とは当院を上下に二分したものであろう。その後,長禄3年島津忠国は蒲生宣清をその本領蒲生から移して給黎に封じ,さらに明応4年島津忠昌は蒲生氏を本領に移して弟忠弘を当地の領主とした。後にその子孫は喜入氏を称したが,文禄4年太閤検地後の所替によって喜入氏は日置【ひおき】郡永吉に転封され,この地は肝付氏に与えられた。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461788
最終更新日:2009-03-01




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