ケータイ辞書JLogosロゴ 岸良村(中世)


鹿児島県>内之浦町

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。大隅国肝付郡のうち。文永11年6月18日付の沙弥阿仏(肝付兼員)譲状に「肝付郡内岸良村弁済使職田畠山野狩倉」とあり,次男兼基に譲られている。その四至は「限東内浦堺 限西禰寝堺 限北郡本堺 限南海」であった。次いで建治元年10月18日,当村弁済使職は親父阿仏譲状を副えて兼村からその子息得益へ譲られ,弘安2年4月には某下文でもって安堵されている。以後,当村弁済使職は肝付氏一族岸良氏に相伝され,鎌倉期には兼基・兼村・兼義らが,南北朝期には兼世・兼阿・兼弘らが同職を帯している。弁済使職相伝の状況は応永23年12月18日付の伴兼善への沙弥崇重譲状まで断片的に確認できるが,同職相伝の際には文永11年の阿仏譲状が最重要の手継ぎ文書として継承されている。この間,文保元年には「救仁郷飯熊別当并同扶持人彦兵衛尉兼村」が「令海賊岸良村御年貢米船」として肝付弁済使に訴えられ相論となっており,元応2年には姶良【あいら】荘弁済使道知房永信らを「与力肝付東方弁済使野崎宮内左衛門尉兼賢」が殺害したとして,当村弁済使が訴えられている。その後,元亨3年には肝付郡地頭が同郡弁済使の所務を押領,そのため村々弁済使の一員である当村弁済使兼義も一時「本宅」を追い出されるという事態も起こっている。この事件に関する同年4月17日付大隅国守護代等連署打渡状によれば,「岸良村二十町六段廿中」とあり,当村の規模の一端がうかがえる。また,応安5年5月15日付の兼弘宛沙弥成仏譲状によれば,当村の領家年貢は10貫文で,うち本田4貫文・東方2貫文・西方2貫文とされている(岸良氏文書/旧記雑録)。なお,南北朝期の正平12年4月28日には,「大隅国肝付郡内木志良村地頭弁分并羽見村地頭職」を島津氏久が兵粮䉼所として比志島範平に宛行っているが(比志島文書/旧記雑録),比志島氏と当村の関係については不詳。下って永禄9年11月,肝付氏本城は落城,天正8年肝付氏が阿多に移されてのち,一族も所々に移され,島津氏の支配下となって当村は内之浦郷に合せられた。岸良氏の館跡は岸良地内上西地区の神園付近の台地上にあり,岸良城跡も残っている。加茂神社は岸良城の守護神として創建されたものである。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461799
最終更新日:2009-03-01




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