ケータイ辞書JLogosロゴ 木牟礼城(中世)


鹿児島県>高尾野町

南北朝期に見える城名薩摩国山門【やまと】院のうち城址は高尾野町江内にあり,野田町との境に位置する建久年中島津忠久が薩隅日三州の守護に任ぜられると,家臣本田貞親を下向せしめ,木牟礼に城を築いて以後三州の経営に努めたと伝える木牟礼城の初見は,南北朝期の文和3年3月26日付で島津貞久が伊地知生一丸に与えた宛行状に「山門院西方内〈了元作〉・六反廾〈太郎給相下〉・壱反給〈侍従房黒鳥川〉・一反卅跡〈鶴給〉,木牟礼之城警固之程,所宛行也」とある(伊地知文書/旧記雑録)また同じく文和3年6月20日付の島津氏久の請文に「薩摩国和泉庄御敵等,擬可寄来于老父道鑑之居住山門院木牟礼城之由聞侯間,舎兄師久押寄和泉庄知色彦三郎入道行覚以下凶徒等所楯籠尾崎城」と見え,木牟礼城の貞久を攻めようとする宮方和泉政保らの機先を制して,氏久の兄師久が政保方の尾崎城を攻撃したとある翌文和4年6月18日付の幕府へ進上した島津氏久の請文にも「薩摩国凶徒牛屎高元・市来氏家・東郷道義・肥後国芦北庄宮方凶徒,引合于当国凶賊和泉庄下司政保以下,去四月廿六日夜老父居住忍入于山門院木牟礼城,及合戦次第,舎兄師久注進之間,不及巨細侯」とあり,和泉政保らの南朝方に木牟礼城が襲われたことを報じている(氏久公御譜/旧記雑録)室町期に入ると,島津氏は薩摩国守護総州家と大隅国守護奥州家とに分立し,のち両家の権力争いが起きるが,総州家の島津守久は応永29年,最後の居城木牟礼城を奥州家島津久豊に追われ肥前に出奔,以後木牟礼城の名は見えなくなるなお,文和3年3月26日付島津貞久宛行状に見える黒鳥川は,野田町下名地内の野田川河畔,川を挾んで高尾野町に接する水田地帯に地名を残す
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461829
最終更新日:2009-03-01




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