ケータイ辞書JLogosロゴ 久徳名(中世)


鹿児島県>蒲生町

 鎌倉期〜戦国期に見える名田名。大隅国蒲生院のうち。久得とも書く。建治2年8月日付の大隅国在庁石築地役配符に,蒲生院142町300歩の公田分119町5反小のうちとして「久得七十二丁反小〈加神田寺田万得定,除貢進田二丁六反〉定六十九丁五反小〈六丈九尺五寸四分〉」と見え,さらにその内部は「本名久得 名主弥太郎清持」「久富 名主西俣三郎清幸」「久松 名主内村弥太郎清元」「久末 名主七十房跡」に分けられている(調所氏譜祐恒伝/旧記雑録)。蒲生院中最大の名であり,かつ蒲生城ならびに蒲生居館を擁する蒲生院の中心の名であった。久得・久富・久松の名主は蒲生氏の通字清を用いており,その一族であろう。西俣氏は蒲生氏支族である。これらの名のうち久得(徳)・久末は蒲生町の大字名に残るが他は遺称地がない。下って,文明19年2月18日付で島津氏老臣平田兼宗・村田経安連署の「大隅国蒲生院」坪付が田代刑部少輔に与えられており,そこには「うき免,久徳名,八反 馬わたり,二反 同所」と見える(田代家文書写/県史料拾遺)。これは当時蒲生宣清が給黎に移封中であって,蒲生院は島津忠昌の手中にあった(県史)ことによるものであり,間もなく同院は蒲生氏に復したが,蒲生合戦後(弘治3年)蒲生氏は退去し,島津貴久の有に帰した。蒲生合戦については,「山本氏日記」弘治元年4月15日条に「此日,北郷次郎殿御手の衆三百計ニて,蒲生の横尾口にさしよられ候て矢いくさあり」,同年5月12日条に「新栫之人衆,蒲生之横尾口之垂三重被取破候ヘ共」などと見え,蒲生城大手の下方にあたる蒲生町下久徳字横尾口が激戦地となったことが知られる。また,同日記弘治2年12月5日条には「蒲生の内馬立といふ所ニ御陳とりあり,御大将者典厩様」とあって,蒲生町上久徳字馬立の地に島津忠将の陣の置かれたことが知られる(旧記雑録)。その後,天正3年3月の島津氏老臣川上忠克等連署坪付に「久徳名 一反 森き田,久徳名 一反 柏木」とあり(松下兼知相伝文書/鹿児島中世史会報28),森木田は下久徳の字名に残っている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461835
最終更新日:2009-03-01




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