ケータイ辞書JLogosロゴ 清藤名(中世)


鹿児島県>伊集院町

 鎌倉期から見える名田名。薩摩国伊集院のうち。建久4年の薩摩国諸郡注文に「伊集院〈清藤名〉」とある(宮之城記/入来文書)。また鎌倉後期と推定される年月日未詳の薩摩伊集院分造宇佐宮用途支配注文には「清藤 肆拾肆疋 米玖斗」と見える(島津家文書3/大日古)。降って,戦国期,伊集院が島津氏直轄領となった宝徳2年以後にかかる明応4年11月25日付島津武久知行方目録案によれば,萩野又二郎に「伊集院清藤名之内 四反 はし口」が宛行われている(入来文書)。島津立久が制定したという永正11年12月15日付伊集院諏訪祭礼番帳には「八番……清藤名」と定められている(伊集院由緒記/県史料拾遺)。慶長6年3月18日の島津家家老連署知行加増目録では薬丸壱岐守に「清藤名浮免」高4石1斗6合7夕が安堵されている(薬丸家文書/鹿児島市史)。なお,室町期の応永11年8月22日の伊集院頼久・為久連署寄進状によって安堵された広済寺(伊集院町古城)寺領に「高別府〈弐町山野在之〉月庭寄進」があるが(広済寺文書/旧記雑録),これは伊集院町清藤の北部にある小字高別府に比定されよう。広済寺は伊集院忠国七男南仲景周の開基にかかる禅寺,月庭は忠国妻,頼久の祖母にあたる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461840
最終更新日:2009-03-01




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