ケータイ辞書JLogosロゴ 清水(中世)


鹿児島県>国分市

 室町期から見える地名。大隅国曽於【そお】郡のうち。文明6年頃の記録には「御内之方々……廻・敷根・清水仁本田親兼……各一城宛被持候」と見え(旧記雑録),島津氏老中の本田親兼が領している。「島津国史」文明8年2月25日条には「清水人・曽野郡人攻宮内東郷」とあり,島津忠昌に反した島津国久・秀久らに与同して本田親兼も兵を起こしたが,文明8年の弓箭合戦之次第には「清水・上井互ニ無指事」とある(旧記雑録)。大永5年,兼親は島津勝久から宛行われた曽於郡を一族の親尚に奪われたため,「清水隼人城」を築いて,親尚に対抗し(島津国史),また大永7年にも本田董親が島津氏に反して当地にたてこもったという(貴久公記・箕輪伊賀覚書/旧記雑録)。天文17年3月には本田親和が姫木城に拠ったため,董親は姫木城を攻めたが敗退,上井・敷根・廻3氏がこれに乗じて反島津氏の行動を起こすなど当地一帯を巻き込む争乱となった。同年9月6日島津貴久の派遣した伊集院忠朗によって董親の清水城は攻め落とされたが,董親は謝罪し「清水七十五町」を改めて安堵された(樺山玄佐自記/旧記雑録,島津国史)。しかし,再び反したので,翌10月6日,島津忠良は伊集院忠将・樺山幸久を派遣して清水を攻撃,董親を日向の荘内に退かせた(貴久公記・箕輪伊賀覚書・樺山玄佐自記/旧記雑録,島津国史)。この直後,当地で論功行賞が行われ,伊集院忠将に当地が宛行われた(島津国史)。次いで弘治3年4月,島津貴久が蒲生氏を討伐すると,当地は島津以久の領地となった(長谷場越前自記・箕輪伊賀自記/旧記雑録)。天正4年3月の島津以久知行方目録案では「大隅国清水内 一ケ所 たれかと」の地が田中縫殿助に宛行われており(入来文書),天正8年,島津氏が肥後水俣を攻略せんとした際の肥後合戦御陣立日記には以久の配下として「清水 川上調兵衛」あるいは「清水内物頭四人」が参戦しているのが見える(旧記雑録)。また,「上井覚兼日記」天正11年10月7日条によれば島津義弘が肥後堅志田城に阿蘇氏を攻めた時にも以久の手勢に清水の衆がいた。文禄検地以降の文禄4年6月29日豊臣秀吉朱印知行方目録には石田三成知行分として「隅州曽於郡きよ水之内……富小川村……上小川之村……みなと村……船つきこむら……敷根之内持富村 合六千三百弐拾八石四斗四升八合」とあり(島津家文書2/大日古),中世末期には清水は現在の国分市清水のほか上小川・湊・川内・敷根などを含む地名としても用いられたらしい。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7461846
最終更新日:2009-03-01




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